双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

空っぽ

|日々|


山へ行く。そう決めて、日曜の晩の内に弁当を拵えた。
通勤時間帯の電車と、路線バスを乗り継いで辿り着いた
終点のバス停は、山深い集落。僅かの民家は在れど、
人の姿は見当らない。登山口のすぐ手前まで車で入れる
と云うが、そんなものに縁の無い者は、ひたすら歩いてゆく
のみである。しかしそれで良い。登山口までは延々と砂利
敷きの林道が続き、山間の長閑な田園の眺めが伴をする。
途中、蛇の死骸に出くわして、季節柄仕方が無いとは云え、
できれば遭遇したくないものだなぁ、などと想う。誰とも
行き会わぬまま、車も見ぬまま、四十分程で登山口へ到着。
準備運動を終えると、塩梅の良さそな杉の枝を杖に選び、
いざ山へ。いじり過ぎず、自然のままに程好く整備された
登山道は、前日の雨のせいで湿り気を帯び、苔の匂いがする。
枝打ちを施された、立派な杉がすうっと美しく伸びて居り、
しんと静かの山の中を、ゆっくり。踏みしめながら歩く。
数年ぶりの山。こんな風な心持ちがするのは、久しぶりだ。
所々に山水を引いてきて拵えた、簡素な水飲み場の設けて
在るのが有難い。山頂に神社を奉るこの山は、その昔、
修験者たちの修行の場であったと訊く。道中には奇石・巨石の
数々が残され、一つ一つ確かめながら登るのも、また愉しい。
ウグイスら山鳥の声。ナラ、シデ、ヒノキ、ブナ、エゴノキ
木々の間を風が抜けて、枝葉を揺らす。山の音。
この場所。この時。誰も居ない。私独りだけが、山を行く。


四十分程歩いたのだろか。最後に苔むして急な石段を登ると、
山頂の神社へ到着。先ずは鄙びたお社をお参りし、すぐ先の
展望台へ向かう。確かに在った。こじんまりとした展望台の、
錆び付いた螺旋階段を登る。晴れては居るのだけれど、眺めを
靄が覆って好くは見えない。じっと目を凝らすと、ぐるり。
見渡す限り、本当に山ばかりなのが分かって、清々とするのと
同時に、何だか少し怖くなる。幾らも居ないまま下に降りると
ようやく人心地、丸太に腰を降ろし、ザックから奥会津で求めた
弁当行李を取り出す。山の弁当は、しみじみとして美味しい。
下山に掛かる時間を入れても、帰りのバスまでは充分持て余す
程の時間が在るのだが、弁当を食べながら、それも随分と贅沢な
話だな、などと想う。空は陰り、太陽を覗かせ、また陰る。
どのくらいぼんやりして居たのだろ。色々なことが浮かんでは
消えて、浮かんでは消えて。そうしてやがて、空っぽになる。
空っぽのまま、再びちいさな展望台に登り、再び山を見る。
最初は怖かったのが、平たい、穏やかな心持ちになって、
ごろんとそのまま横になり、ぬくまったところから伝わる熱で、
すっかり力が抜けてゆく。嗚呼、独りなのだなぁ。こうやって。
この安らかな孤独は、山に登ることでしか得られんのだなぁ。
お天道様の光が、とくとくと体中を巡って居る。あったかい。


十二時が近くなった頃。ようやく体を起こす気になり、山を降りた。
杖に使った枝を元在った場所に戻して、元来た林道を抜けると、
バス停が見えてくる。ゆっくり歩いた筈だのに、行きも帰りも
きっかり一時間二十分。ふと見ると、バスを待つ人のためだろか。
お地蔵さんの前に、小さな切り株が在った。

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