双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

運命の女

|雑記| |猫随想|


実はここ暫く、体調が芳しくなかったのである。食事がろくろく喉を通らず、夜もしみじみ眠れず、仕事に立てば動悸がしたり息苦しくなったり。まことにお恥ずかしい話だが、剣菱捕獲のプレッシャーから精神的にすっかり参ってしまい、にっちもさっちもゆかなくなってしまったのである。
それと云うのも、一旦仕切り直しとなった捕獲計画。剣菱に合わせて焦らず参ろう、などと考えて居たのに、正月が明けて少しした頃からか。時折大きくアオアオと鳴きながら、オスの野良猫が付近をうろつき出し、やがては店先にまで図々しく現れるよに...。ん?もしや...!そう。所謂”冬サカリ”の到来であった。となれば当然交尾が行われ、となれば当然子を孕む訳で、是ばかりは誰も待ってはくれぬ。つまり、悠長になどして居られなくなってしまった訳だ。下ろしかけた尻を叩かれるよに慌てて計画を立て、捕獲に必要な中ケージを揃えたり、道具を拵えたり。準備万端でいざ捕獲に臨んだものの、今回も失敗。あと一歩のところを、結局は私の運の無さと詰めの甘さであろう。何しろ剣菱はとても用心深く慎重で、とても賢い。この用心深さと賢さは、野良が野良として生きてゆくには素晴らしい才能で、実に立派なものであるが、この場合あまり有難くない才能である。
幾度と捕獲が失敗しても、サカリの季節は進んでゆく。でっかい顔の茶トラが、間抜け面したキジトラが、巨体を揺らしてのし歩いてゆく。或るときなど、拙宅の坊ちゃんたちの憩いの場である、外階段の踊り場にいつの間にか侵入したと見え、ちゃっかりマーキングなどしてあった。今まで何事も無く平穏であった坊ちゃんらの暮しにまで波及が...。嗚呼、何てこった...。既に十分心配をかけて居る立場から、更に皆を巻き込むこともできず、かと云って相談する相手も力強い協力者も居らず、独りで切羽詰って、できれば暫くはもう猫のことなど考えたく無い、猫の姿も見たくない、といよいよしんどくなって、そうこうする内、体に冒頭のよな異変が起こり、母やAちゃんを心底心配させる程に参ってしまったのである。こんなことは全くの初めてで、自分でも「こいつは何か変だぞ、おかしいぞ」と自覚が在るのに、体が、気持ちが、ちいとも云うことを聞いてくれない。
そうなって、是はもう私一人の手には負えぬ事柄だ、と悟り、最終的に県内の保護団体へ相談することとなった。しかし、日々TNRなどの保護活動に飛び回るこの方たちの多忙と苦労とを考えると、只でさえ手一杯のところへ、野良一匹程度のことで相談することが躊躇われ、なかなか決心できずに居た。かと云って、このまま思い詰めて自分自身が壊れてしまっては、何にもならぬ。意を決して連絡したところ、会長さん自らが早速に返事を下さって、後日直接お会いすることができ、捕獲器を貸して頂けた。私のよな素人に果たして捕獲器が扱えるか不安だったが、扱い方やコツなどを詳しく教わった。通りすがりの猫など、目的の猫以外も掛かってしまうのが難点だが、何せ物陰に隠れて機会を待ったり、自らの手で紐を引っ張るなどの必要の無いのが有難い。その日のうちに捕獲できれば良かったのだが、ちょっとした振動でストッパーが外れて蓋が閉まり、又しても寸でのところで逃げられてしまった。嗚呼、私はつくづく運が無いらしい。勿論、失敗の落胆は大きかったけれど、自らの手のタイミングで取り逃がしたときのに比べたら、遥かに軽い。そして何より専門家に相談に乗って貰い、色々とお話ができたので、だいぶ肩の荷が下りたのか。ご飯が食べられるよになったし、夜も眠れるよになった。
ファム・ファタール...。剣菱は差し詰め、関わった者の人生を狂わす”運命の女”か。お前に出会わなければ、私の生活は今尚平穏なものであったろか。否、そう感じてしまうのは、私自身の所為なのだろね。お前は野良としてあまりにも賢いだけで、ファム・ファタールなんかじゃ無い。もっと早くに出合えて居たなら。もっと時間が在ったなら。
こんな茶番に早く決着が付いて、お互い気楽に、仕合せになりたいものだけれど。

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