双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

剣菱の精一杯

|雑記| |猫随想|


昨日の剣菱捕獲が断念せざるを得ぬ結果となり、早く何とかせねば、と焦っていたのであろう。
夕刻近くに現れた剣菱を、今度こそと躍起になるも、そんな具合だから苛々があちらさんにも伝わるのか。当然上手くゆく筈も無い。まして若旦那をお医者へ連れてゆく予定も在ったため、余計に苛々として居たのだと想う。結局、計画も途中に諦めてお医者へ行くこととしたのだけれど、余裕の無い気持ちから、若旦那を無理に急かしてしまう。突然の尿路閉塞からひと月。尿検査の結果も異常無し、もう大丈夫でしょうとのこと。少し気が楽になって帰って来ると、どうもAちゃんの様子がおかしい。聞けば、私が若旦那を連れてお医者へ出掛けて居た間、剣菱が偶然にもサークルの中へ入ったものだから、Aちゃんが慌てて扉を閉めたところ、通り抜けられそうにも無い筈の柵の間を、もの凄い力でこじ開け一瞬にして逃げて行ってしまったのだ、と云う。




「まさか、あの隙間をこじ開けるなんて思いもしなかった。もしかしたら、あばら骨が折れたか、何処かを怪我してしまったかも知れない...」Aちゃんが涙ぐんだ。このサークルは万一、夜間に捕獲できた場合に備えて、閉じ込めたキャリアを更に囲う為に用意してあったものなのだが、そもそもが室内犬用で、折畳み式と云う性質故か、若干しなってたわみ易い金属で出来て居たらしい。普通であれば、大人の猫は柵の隙間など抜けられないが、パニックを起こした剣菱は、火事場のくそ力で是をこじ開けてしまったのだ。それも相当の無理をして。嗚呼、どうしよう...。私が年内捕獲を焦って一人で苛々して躍起になって居た所為で、皆に負担をかけて居たばかりか、当の剣菱にも酷いことをしてしまった。無論、Aちゃんに咎など無い。私のここ数日の憔悴の様子を気に掛けてくれてのことだ。全ては私の身勝手が招いたことである。
恐らくは当分の間、もしかすると、もう二度と姿を見せないかも知れない。でも、こんなことがこのまま続いたら、気が病んで、仕事にも支障を来たすよ。だから一旦、捕獲のことは忘れて、気持ちを切り替えようよ。それが良い。Aちゃんにそう促され、私は剣菱の捕獲を一旦棚上げすることにした。しかし、怪我を負ったかも知れぬ剣菱のことが心配で、戻って来る筈も無いであろうに、気付けば窓から外ばかりを見て居た。
すると、店仕舞いの少し前。ふと表を見やると、軒下に剣菱の姿が在ったのである。戻って来た!そっとドアを開けて呼ぶと、こちらを見ながらタタタと歩いて来て、段ボールハウスの上(ここが気に入りの定位置)に乗っかって、いつものよに香箱を組んで座った。どうやらどこにも怪我などは無いらしい。嗚呼、良かった。「本当に御免よ、剣菱。堪忍してな」そう云うと、ゆっくり二度三度両目を瞑り、つまんで差し出したパン切れを口にした後で、私の指先をぺろと舐めた。申し訳ないのと嬉しいのとで、胸が一杯になって、涙が出た。ついさっき、あんなことになったばかりだのに、未だ信頼してくれて居る...。相変わらず警戒はするし、近寄れば距離をとるし、撫でることも触ることもできない。けれども、剣菱剣菱で精一杯、我々を受け入れてくれて居るのだ。それだのに、こちら人間の都合やペースを、剣菱に無理強いしようとして居た。良いよ、良いよ。これからは、お前のペースでゆこうね。お前がその気になってくれたらで構わない。それまで、ゆっくり待つことにするよ。
ここのところずっと、捕獲捕獲と、そのことばかり考えて、心をいがいがとさせて居た。周りの皆にも嫌な思いや気遣いをさせてしまって居た。これからは、無理に焦らず剣菱に合わせよう。そう想ったら、今までの苛立ちや心痛が馬鹿みたいにすうと消えた。

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