双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

猫と人

|猫随想| |本|


再び女たちよ! (新潮文庫)

再び女たちよ! (新潮文庫)

先日のエントリ(→)の冒頭で触れたのが、この伊丹氏の名エッセイ『再び女たちよ!』である。折角の機会なので、同書に収録され、同じく猫について書かれた「我が思い出の猫猫」の中から、ひとつ素敵な箇所をご紹介したい。
氏は「どうして猫が好きなの?」「ねえ、あたしとコガネとどっちが可愛い?」と愚かな問いを繰り返す女たちを嘆き、猫と云う生き物の特性に触れながら、

実に猫というのは偉いものではないか。あんなに何にも役に立たぬ、いや、純実用的に考えるなら邪魔な存在でしかない筈のものが、おのれの魅力だけで世を渡っている。犬のように人間に媚びるわけじゃない。なんとも我儘放題に、むしろその家の主のような態度で世を渡っているではありませんか。こんなことは私にはとてもできない。

とし、更にこう述べて居る。
「そういうわけで、猫と人間とはつねに対等にしかつきあえない」


つい口端を緩めて、人知れずニヤリとしたくなるよな考察である。昨今巷では飼い主を”オーナー”なんて横文字で表すのが主流らしいが、私は常々猫については対等と想って居るから、是にはどうも、むずむずと据わりの悪い違和感を禁じ得ない。拙日記では便宜上、自らを「主」などと書いては居るけれども、猫と自分の関係に主従も上下も無く、云わば奇妙な取り合わせの同居人か。或いは友人みたいなものと考えて居て、それ故、いつだか若旦那をお医者へ連れて行った際、待合所で隣り合った感じの宜しい中年女性が、会話の中で至極当たり前のよに口にした「猫ちゃんも、良いママに貰われて安心ね」の「ママ」なる呼び方には、只引き攣った作り笑いを浮かべるしか術のなかったことを白状しよう。
この女性に全く悪気の無いのは百も承知である。しかし、そうした世間一般の風潮とは別に、私個人の想いについて述べるならば、ママだ何だと云うのは、こちら側の一方的な思惑なのであって、肝心の当の猫の意思なんてものは、先ず殆ど反映されて居ないのではなかろか。尤も、猫自身が自ら「あいつは俺の母ちゃんだ」と認めて居る風となれば話は別であるけれども、押しなべて人間と云うのはどうやら身勝手な生き物で、己の種族がいっとう上だと信じて居るのだから、質が悪くていけない。
我々人間の都合で、猫たちを勝手に位置づけるなかれ。彼らには、ああ見えて人格(猫格)と云うものが在るのだ。「ママがお出掛けしてる間、おりこうたんにちてまちたかー?」などと阿呆面寄せて来る主を見るにつけ、彼らは彼らで「おいおい勘弁してくれよ。どの面下げてママなもんかね。まったく仕方ねえなぁ。」と呆れて居るやも知れぬのだから。
さて。ちなみに本書をご存知の方なら、犬が些か好意的に書かれて居ないことに気付かれようが、そもそも、犬が媚び猫が媚びない云々などと云うのが必ずしも事実ではないのを、氏も重々承知の上であろうことは想像に難くないし、恐らくは犬も好きであったろう。是はつまり、そうした風に犬派だ猫派だに始まって、やれ血液型だ星座だと何事もカテゴライズしては安心し、何事も比較せずには気の済まぬ我々人間の愚かしさへ向けた、氏一流の皮肉たっぷりのユーモアなのではないかしら、と想って居る。


|若旦那|


拙宅の若旦那の近況はと云えば、困った悪戯がまた一つ増えた。爺様の仏壇へ供えた水を飲むのは、爺様に許しを貰った上で已む無く容認したが、今度の新手の悪戯ばかりは全くいただけない。つまり、隙を見ては玄関からスニーカーや山靴など、紐靴ばかりを選んでは持ち出し、どうやってしたものだか。見事きれいに紐だけを解いて抜き取ってしまうのである。その結果、仕事を終えて帰ると、茶の間に紐の無い裸の靴だけが、ごろりと転がり、紐は紐で、風呂場の脱衣籠やら猫タワーなんかに、だらりとぶら下がって居ると云う、一見するとシュールな光景に出くわす始末なのだ。
先週、若旦那が気付かぬよにして、こっそり盗み見たところ、あのちんまりした口と前足とを使って、実に器用に結び目を解いてしまって、紐を引っ張り抜いて居たのには、いやはや参ってしまった。しかも、かなりの集中力と根気とを要する作業である。こうなると、もう前足などとは呼べまい。立派に”手”であろうよ。叱られはしても決して褒められず、一銭の得にもならぬであろう、靴の紐抜き(と放置)。若旦那は、果たして何を想って夢中になるのであろうか・・・。




悪戯しないときには、もふもふとかあいらしく見える、この御手が・・・・・。

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