|本|
- 作者:伊丹 十三
- 発売日: 1976/07/25
- メディア: 文庫
時代は進化しているのであろうか、それとも単に移り変っているのであろうか。若ものたちの趣味が、このような低い次元で、根無し草のように漂っていることは困ったことだと思うのです。「これ見よがし」のスタイルが現れると何の選択の基準もなく次から次へと手を出す。
(中略)
そこで、わたくしは「正装」をすすめたい。「新しく背広を作る人」も、三着目、乃至四着目にはタクシードを作ることをすすめたい。タクシードなんて一生に何度しか着ないものを、といってはいけない。これを悪びれず、どんどん着るのである。
(中略)
正統なものを中心に据える。当然のことではありませんか。赤いシャツやラッパズボンに服装の中心を占領させておいてはいけないのだよ。「お洒落」という、いささかインチキ臭い言葉よりも、身嗜みということを大切にしようではないか。「これ見よがし」なんていうことを、諸君がいくらやってみても大したことはないんだ。上には上があるのです。
いつまでも切りの無い流行に、心貧しく振り回されて居ないで、いっそ若い内にタキシード作って、”夜、遊ぶ時やちょっと改まった席など” に、是をどんどん着なさいヨ、と云う訳だ。氏に倣って云うなら、思わず ”はた!と膝を打” ちたいお話である。確かに、着始めはタキシード姿もぎこちなかろうが、着るに従い、徐々に板についてくるだろう。そうすると、普段着も恐らくはそれに連れてくる。○○が流行すればそれに飛びつき、次に××が流行すればそれに飛びつく、と云った皆が皆一様の風潮は、ここに書かれた時代も現在も何ら変わっては居ないが、巷に何が流行しようとも、一旦 ”正統” を知ることで磨かれた感覚は、そう容易く揺らぐことのないものだろう。私個人の好みではあるが、タキシードでなくとも、背広ならば是非とも三つ揃いで着て頂きたい。男ぶりが数段上がって見えるのに、昨今三つ揃いを殆ど見掛けないと云うのは、実に残念なのである。*1
何にせよ。御呼ばれの席などに、若い青年がタキシードをりゅうと着たのを見付けたら、さぞや素敵なものだろなぁ、と想う。