双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

五日後

|雑記|


地震から五日が経過し、我が町も少しずつ、徐々にではありますが落ち着いて参りましたので、近況を記しておこうと思います。
崩落した屋根にビニルシートで応急処置を施した家も目立ち、同じく崩落して道路のあちこちを塞いで居た石塀も、一先ずは路肩へ寄せられ通行ができるよになりましたが、陥没や亀裂は手付かずのままです。自衛隊ジープは、二日程前から見掛けるよになりました。避難所での生活を余儀なくされて居る住民には、未だ十分な物資が与えられて居ないと聞きます。滞って居た物流も、少しずつではありますが動き出した模様で、市内の一部のスーパーが本日より営業を始めました。とは云え数に限りが在ります。僅かな日配品は、あっと云う間に売り切れてしまいました。弟は地元の消防分団に所属して居るため、地震直後から分団の詰所に寝袋持参で寝泊りしながら、市内各所の復旧作業に従事して居ました。つい先程、家へ戻って来たので、市内各所の被害状況などを聞くことができました。地震の被害は兎も角、幸いにも我が町では、津波による被害が殆ど無かったとのこと。両隣の町の沿岸地区は大きな被害を受けたのですが、どうやらこの辺りの海岸線は地形の利も在り、冠水こそしたものの、大津波に襲われることがなかったのです。
消防分団員や民生員の方々など、市民有志による懸命の働きは、何より心強いものでした。役所の動きが不鮮明で、何かともたついて居たにも拘わらず、こうした人々が積極的に動いてくれて居ます。発電機を持つ人が、自家水を持つ家々を回り、ポンプに繋いで水を汲み上げ、はるばる給水車を待たずとも、近隣の人々が水を得ることができました。身内のM叔父は、海沿いの河口付近に作業場が在るのですが、川の逆流で浸水の被害に合いながらも、復旧のための資材を求めに来る大工さんや業者さんのために、毎日倉庫と作業場を開けて居り、自家水を配って居ます。又、お弁当屋さんが、駄目になってしまう前にと、冷凍食品を近隣のお宅へ無償で配ったり、若い男の子がお年寄りの給水袋を運んであげるなど、特に被害の目立った町場では、ご近所さん同士が自主的に助け合いながら、心細さを堪えて逞しく凌ぐ姿が多く見受けられました。しかしその一方で、移住者のための新興住宅地や、比較的新しい地区などにおいては、残念なことに、こうした声掛けや助け合いの意識が希薄だったと聞きます。私の店の在る地域も又、そんな場所柄ではあるものの、幸い両隣や裏手のご近所さん方は、皆さん気の善い方ばかりですので、町場同様互いに声を掛け合い、助け合いながら日々を乗り切って居ます。何にせよ、兎に角我が町の市民は、皆さん元気です。気質なのでしょうか。良く云えば暢気で楽天的。悪く云えば、ちいと鈍いと云いますか。単に危機感が薄いだけなのかも知れませんけれど…。
二日前の夜になって、一部の地区でようやく電力だけは復旧しました。水道の断水は相変わらず続いて居り、復旧のめどは未だつきません。店の中は出来る箇所から徐々に片付けて居りますが、余震も続いて居りますし、貴重な水を掃除に使うことなどできませんから、手を付けられないで居る箇所も未だ未だ在ります。商売道具である食器類や資材類の大半は、破損で失うことになりました。当初は諦めて 「かえってすっきりしたわ。」 などと威勢の良い軽口を申して居ったのですが、やはり愛着と云うのは厄介で。想い入れの在る物も多く、こうして時間が経つに連れ、じわじわと苦い心持ちになってきます。しかし、命と建物が丸々残っただけでも御の字。他に何の贅沢も申しません。でも今、たったひとつだけ許して貰えるなら。只、熱い風呂に浸かりたいです…。
それまではラジオの音声や、新聞の紙面でしか知り得なかった東北地方の惨状を、一昨日の晩に、初めて映像の形で目の当たりにし、あまりの光景に言葉も無く、涙が止まりませんでした。確かに、我が町も被災地の一つに違いないのだけれど、東北の悲惨な被害とは比べようも無い。こうして電気が使えるよになった現在も、東北地方の皆さんのことを思うと、それを無邪気に心から喜ぶ気にもなれず、極力最低限度の電力だけで過ごして居ます。こんなことでどうにかなる訳でないのも、重々分かって居るけれど、あの極寒の中で不安を抱える人々のことを考えれば、少々寒いからと云って、おいそれと無闇に暖房器具を使う気にはなれないのです。
本日午後から、物凄い暴風が北から吹き寄せて止まず、折角張ったばかりのシートや、仮付けの波板の多くが、無残に吹き飛ばされてゆくのが見えます。福島の原発事故の処理に、連日文字通りの命懸けであたって居る作業員の方々のご苦労は、我々の想像を絶する過酷さでありましょう。ただただ無事を祈るばかりです。

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