双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

始末良き暮らし考

|暮らし| |モノ|


物を持ち過ぎず、身ぎれいに、始末良く小さく暮らす。


三十路を迎えて以来、特に念頭に置き、己の暮らし向きの指標とするところであるのだが、皆様もご存じであるよに、滅法モノ集めの好きな質であるから、是が実に厄介で、容易に事が運ばぬ所以である。古物からガラクタ、紙モノの類に至るまで、それはもう、こまごまと抽斗やら箱やらにびっしりなのであり、それ故に冒頭の一行は、もはやライフワークと呼ぶべき一大構想となりつつあるのだ。
そもそも、人はいつ何時、如何なる形で死を迎えるか知れない。例えば、つい先程まで何事も無くとも、いつものよに買い物を済ませたスーパーの敷地内で、ひょいとご近所さんに出くわし立ち話。話ははずみ、食パンを満載した納品トラックが後進して来たことに気付かず、暢気にあははおほほ、などとやって居るところへ、そのまま…なんてことが無いとも限らない訳で、*1そんな不本意な形で死を迎えた故人 (私?) も死に切れぬだろうが、そうして唐突に主を失い残された大量のモノについて考えると、更に気が気でないし、「何だってこんなに、ゴミばかり良く集めたものかしらっ!」と汗だくで愚痴られながら片付けて貰うと云うのも、何だか実に申し訳無いと想う。何しろ、本人にとっては価値の在るモノであっても、片付ける人間にしてみれば、只のゴミの山としか映らぬことが、大変に多いからである。
だからと云って勿論、始末良く暮らしたい理由が、何もそれだけに限ったことでは無い。ここ数年来変わらぬ心づもりとして、モノとどう向き合い捉えるか、と云うのが先ず在って、それを考えると自然、其処へ行き着くのであり、つまりは始末の良し悪し。モノを選ぶ目。それが自ずと、身ぎれいな暮らしへ繋がってゆくのではなかろか、と。しかしながら、想うことは簡単であっても、実行するとなれば話は別だ。何せ身の回りは、趣味に託けて集めた、様々のモノたちで一杯なのである。ちなみにささやかな名誉の為申し上げるが、確かにモノの数は多くとも、部屋中所狭しと散乱して居る、と云う訳ではない。(”汚部屋” を想像しかけた御仁、悪しからず。)大概のこまごまは、抽斗や缶箱などにきちり、分類・保管して在るし、押入れの段ボールに関しても、中身はきちんと把握して居り、そして掃除は好きである。只、その一つ一つが全て手元に置いておく必要に在るのか、と云うことを考えると、必ずやそうでは無いのが現実かとも想う。否、恐らくは半分以上が、必要に当てはまらぬのではなかろか。
数ヶ月前だったか。非常にざっとではあるが、衣類の一部を整理し、その清々とした心地と云ったら無かった。衣類だけで無しに、身の回り全てがさっぱりとしたら、どんなにか身軽で暮らし易いだろう。ただし、あんまり整然と片付け過ぎるのも如何なものか、と想う。人が人らしく心豊かに暮らすための、ささやかな無駄の領域だけは、僅かに残しておきたいものである。そんなことを考えては、週に一度の休みを是に当てようとするのだが、やれやれ。この酷暑だ。ならば残暑も過ぎてからに…などと云うのは、やはりものぐさの逃げ口上か。

*1:この例え話。女学生の頃から何百回と繰り返して居るのだが、何故パン屋(ヤ○ザキ)のトラックであるかは謎(笑)。

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