双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

ワタシと敦子とアツコの旅

|徒然| |本|


はじめのきっかけは、何処かの雑誌だか新聞だか、七年ほど前に偶然見掛けた新刊紹介だった。『須賀敦子のミラノ』 。それほど詳しい紹介でも無かったし、確か小さな記事であったと記憶して居るのだけれど、何かに急きたてられるよに、その日の内に注文して居た。元々、永いことイタリアと云う国に惹かれて居たから、それで先ずは気に留めたのかも知れないが、何故だろう。私は必ずこの本を読まねばならぬよな気がした。未だ手にもして居らず、名も知らぬ作家について書かれた本だのに。そもそも、偶然と云うのはもしかすると、必然の中の一つであって、自身がそれに気付くか気付かぬか、と云うことなのだろか。今にして想えば、ここから始まった 「必然の偶然」 が、先々に続く不思議な巡りあわせを引き寄せて居るのだとしたら、やはりそれを信じねばならぬのかも知れない。
正確に云うなら、私の最初に手にしたこの本は、須賀自身による著書では無く、須賀の生前に残した足跡を辿る追体験であり、未だ彼女を知らぬ者にとっては、彼女を知る手かがりの一つでしか無い。しかしながら、私にとってのはじまりは、恐らくそれで良かったのだと想う。この本で、須賀敦子と云う或る一人の作家の輪郭の一部を知り、彼女の人生の一部を知り得たことで、その後、きっとすぐさま読まずには居られぬであろう、その著書を手にしたとき。そこに書かれた言葉を、匂いや背景を、ふくよかに、近しいものとして感じることができたのだし、一種の謎解きにも似た、徐々に確信へと近付いてゆくよな愉しみが在った。それからは、少しずつ少しずつ。彼女の名前の書かれた本が本棚に並んでゆき、敦子とアツコ。両方の足跡を、ゆっくりと踏みしめながら辿る旅が続いて居る。
先に 「必然の偶然」 と云う言葉を使ったが、それを信じるには理由がある。最初の一冊を手にするよりも以前に、実は、私と須賀は既に出遭って居たのだ。著者の名の下に添えられた翻訳者の名に、然程の注意を払わぬのは、私の良くない癖の一つであるのだけれど、A・タブッキの 『インド夜想曲』 が須賀の翻訳であったことを、彼女の残した仕事の一覧で知り、瞬間、したたかに頭を打たれたよな心地がした。N・ギンズブルグの 『ある家族の会話』 も、やはり彼女の訳で、既に出遭いは訪れて居たと云うのに、それに気付かずに居たことを愚かしむのと同じく、嗚呼。こんなことって在るものなのだなぁ。と、目には見えぬ何かの存在を、確かにしみじみ感じ入り、高揚に心の震えるのを憶えた。
運命だとか、或いは運命的だとか。この手の言葉を使うことは好まぬ質だし、また、安易に使うべきでは無いとも思って居るのだが、そんなことがいざ、己の身に起こってしまうと、それをどう云う風に表したら良いのか、遠く途方に暮れてしまう。けれども、人生の中では稀に、本当にごく稀に、そう云う不思議な出遭い。訪れるべくして訪れる出遭いが存在し、そしてそれは、ゆっくりと静かな引力によって、一つだけでは恐らく意味を成さなかったであろう、過去の出来事・記憶の類を引き寄せ、巡りあわせる。私と須賀との出遭いはやがて、学生時代の洋書屋の絵葉書の記憶を引き寄せ、時を経て、ジャコメッリ展での体験へと繋がっていった。そうしてまた、これからも幾つかの 「必然の偶然」 へと繋がってゆくだろか。


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