双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

旅はいつも旅人の入って行けない場所にある

|旅| |回想|


最後に短い旅に出たのは、もう九年程も前のことで、そこに様々の想い出の在るのは勿論なのだけれど、今日アイスクリームを食べながら、ふと思い起こされたのは、何故だか旅の記憶の一片では無く、旅に出る前、或る人より手渡された、一筆の言葉だった。
当時のその人、Wさんは、数年後に定年を控えた百貨店のベテラン外商さんで、しかしながら、その飄々として捉えどころの無い、へんてこな人柄のどこを取っても、てんで外商らしくあらず、いつも哲学者のよな顔して、白髪混じりのオールバックを撫で撫で、深いのだか深くないのだか分からぬ話を始めては「おっほっほ」とはぐらかしたり、煙に巻いたり、実に不思議な人物として通って居た。
出立の少し前、或る日のこと。私が短い旅に出る、と聞き知ったWさんが、外商の途中で一服つくのに、店へ立ち寄ってくれた折のことだったか。私が台所に入って居る間に帰ったWさんから、母が預かった白い封筒を受け取った。仕事が一区切りしたところで、椅子に腰掛けて封を開けると、そこには一枚の便箋と共に、餞別が入って居たのだった。Wさんのことだから、恐らく、餞別をと云っても、私が決して受け取らないと考えたのだろ。その気持ちだけでも、充分に嬉しくて勿体無くて、胸が温かくなる心持ちであったと云うのに、そこに添えられた、筆文字の達筆な一行の、たった一行の言葉を読んで、私はどうしても静かに込み上げてくるものを、堪えることができなかった。
旅の途中。立ち寄ったミュージアムショップで、カンジンスキーのポストカード・ブックを見付けた。見付けてすぐ、これをWさんにと考えて、私は旅の土産にそれを持ち帰った。頂いた餞別に見合わぬのは、重々承知だったのだが、帰国後、Wさんはそれを受け取ると、頷きながら嬉しそうに目を細めては 「カンジンスキーだよ。カンジンスキーだよ。」 と、何度も何度も繰り返したのだったっけ・・・。あの旅の道中、Wさんの手紙はいつも鞄の中に在って、ずっと私と一緒だった。ひどく稚拙に聞こえるかも知れぬが、あの言葉を、私は何故だか、お守りのよに思って居たのだ。
数年前にWさんが、定年して職を退かれたことを聞いた。それからまた暫くして、同級生のお悔やみで近くまで来たと云って、数年振りにWさんが珈琲を飲みにいらした。定年後は、庭いじりに没頭して居るのだと話して居たWさんは、外商時代と比べると、少し穏やかな風貌となって居たよに思う。


「 娘さん 気をつけて行ってらっしゃい 」


Wさんはあの手紙のことを、覚えてくれて居ただろか。

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