双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

O先生のこと

|徒然| |回想|


丁度、去年の今頃だったろか。紅葉には、未だ早かった記憶が在るのだけれど。O先生とお友達の二人で、店に立ち寄ってくれたのを思い出す。それは確か二度目で、一度目はそれよりも一年前の夏、先生独りだったよに思う。新聞のタブロイド版か何かで、教え子であった私と店のことを知り、思いつくまま、びゅんと車を飛ばしてやって来たのだ、と仰った。O先生はそう、私が私立の高校に通って居た頃の、二年と三年のときの担任で、その頃の先生は、米国暮らしの経験の在る英語クラスの担任、と云うことも手伝ってか、何処かアメリカナイズされた、実にふくよかな、体格の宜しい独立心旺盛な肝っ玉母さん、と云った風貌で、気持ちも体格に見合い是また、豪快にしておおらかを画に描いたよな人物だった。担任を持つのは十数年ぶり、お歳はその当時既に、五十代半ば程であったと記憶して居る。
先生が最初にいらした折、自費出版で出された自身の本を数冊、店に置いて頂戴、と頂いた内の幾つかを、私はしみじみと読みもせずに、今まで本棚に並べて置いてあるのを、ふと、何故だか今日になって思い出した。一冊は確か、頂いてすぐに読んで居り、私はそこで、二人のお子さんを育てて居る最中、既に旦那さんとは、実質的離婚状態であったこと。先生のあっけらかんとした人柄からは、微塵も想像すら出来なかったのだけれど、その頃から鬱病を患ってらしたこと。等など、会話の端々で触れられはしたものの、学生生活の中では詳しく知り得なかった先生の波乱の人生を、このとき初めて知ることとなった。恐らく、先生の持つ独特の包容力や明るさは、そうした紆余曲折の中で身に付いていったものに違いない。
数年前には教職を退かれ、現役時代から比べると一回り、否、二回り。随分と小さくなった先生の、山登り姿を思い出しながら『夏のイタリアを行く ―女二人の手作り旅行― 』と題された、クリーム色の表紙を手に取る。巻末を開くと、出版は今から六年程前。書かれた内容はさらに、そこから二年遡る。先生の旅の相棒は、大抵が(教わったことは無かったけれど)歴史のN先生。O先生より十二歳年下で、独身。お互い気楽な「独り身仲間」なのだそうだ。所謂、女二人の旅の記録はミラノに始まり、以降、ヴェローナヴェネツィアフィレンツェトスカーナアッシジ、ローマと約十八日間続いてゆく。O先生の本業は文筆家では無いので「流麗な紀行文」と云った趣きは、勿論、其処には無いのではあるけれど、パック旅行にこれぽちの魅力も感じたことの無い、性格も年齢も異なる、自由気ままな二人の独り身女性が、時折ヘマをやらかしながらも、ケ・セラ・セラ、己の好きに人生を謳歌するよな旅の姿が、何とも先生らしい、飾り気の無い、活き活きとした文章で綴られて居り、二時間程して読み終わった後、私は、歳をとるならこんな風な年寄り(失礼)になりたいものだな、と自然、笑みがこぼれた。
Aちゃんと珈琲など飲みながら、そんなことを話して居る内に、私たちも所帯を持たずに(と云ってもO先生は、所帯を持って居た訳だけれど〕このまま歳をとったならば、こう云う「ケ・セラ・セラな叔母ちゃん」になるに違いないね、と、半ば自嘲気味に互いを笑った。
「いつも云って居るけど、人の云うことを鵜呑みにする前に、自分の考えをしっかり持たないと駄目。例えば、結婚したからって、必ず仕合せになれる訳じゃないし、自分なりの方法でもって、自立した人生を送れるかどうかが大切なんだからね。私は結婚も子育てもしたけれど、色々在って、人生の大半は独身だった様なものだからね。そう云う生き方を、寂しいと思わない?なんて云う人が居るけど、私に云わせれば、大きなお世話よ。」
当時の先生の口癖を思い起こして、私は、其処に些かの時差を感じながらも、はっとした。今まで、余りにも無自覚であったにせよ、O先生の教えは私の中で、十数年かけて確実に育ち続けて居たのだ。物事の対象が何であれ、それを他人がどう感じようとも、いちばん大切なのは、自分の生き方をしっかりと持つこと。自分を生きること・・・。O先生があの頃の私たちに、日々伝えようとして居たことが、今この年齢になってようやく、理解できるよになったのかも知れない。
毎日を包み込むぼんやりと不明瞭な煩いが、いとも簡単に晴れた気がして、また久しぶりに先生の顔が見たくなった。

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