双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

園芸覚え書と坊ちゃん刈り

|庭仕事| |雑記|


以下、作業日誌など。

【九月某日】
壁面のワイヤー張り直し作業完了
つるバラの誘引のためのワイヤー張りは、仕事の合間に少しずつ進めて居たので三日がかり。先ずは以前からのワイヤーを全て外した後、壁面の要所へ新たにビスを打ち、等間隔で横へ平行に5本。縦にも数本。ビスの他に雨樋やトレリスなどもフル活用して、なるたけ様子良く、そしてしっかりとワイヤーを張り直した。後はお嬢さん方が枝を伸ばして育ってくれるのを見守るばかり。


【九月某日】
古い木製トレリス再利用
以前に使って居た古い木製のトレリス二つも、この際なので復活して貰うこととした。ポーチの柵にワイヤーで括り付け、秋に入って再び枝を伸ばしてきたオジェのお嬢さんやら、新入りのお嬢さん方を其々に緩く誘引。


【九月某日】
宿根草の購入

  • ベロニカ・シャーロッテ
  • ベロニカ・マリエッタ
  • ペンタス
  • マジョラム

マジョラムを軒下の花壇へ植え、その他は一先ず鉢植えに。


行かねば行かねばと思いつつも、何だかんだで都合がつかず、
ずるずる先伸ばしとなって、そろそろ限界だったのだが、
ようやっと都合がついたもので、ふた月ぶりで散髪へ行って来た。

嗚呼。ぱきっとしゃきっと、坊ちゃん刈りが復活。
襟足を思い切ってうんと短く刈って頂いたので、
尚更、ぱきっとしゃきっと、なのであった。
清々と足取りも軽い帰り道。
刈り上がったばかりの襟足を、ぷつり。
蚊に刺された。やれやれ、である。

新入りお嬢さんたち

|庭仕事|

以下、新入りさんと作業日誌など。

【九月十三日】

トレジャートローヴのお嬢さん、到着。

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「6号鉢入りの新苗」とのことであったが、いざ届いてみたらば、あらまぁ!中長尺苗と云って差し支えないくらいの、実に立派な苗だ!枝も葉も何と瑞々しいこと。赤味がかった新芽がきれいで、暫し四方から眺め回して過ごす(笑)。


一足先にやってきたお二方。

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【左】ジョアシン・アネの新芽。明るいライムグリーン色が爽やか。でも枝は細くてイガイガの棘だらけなので、取り扱い注意(笑)。
【右】ソンブロイユ。しっかりと厚みの在る濃い緑の葉は如何にも丈夫そうだが、クリームホワイトの花色との取り合わせは素敵だろな。

【九月十四日】
■お嬢さんたちの鉢替え

新入りさんたち、6号鉢から少し早めのお召し替え。

  • ジョアシン・アネ』6号鉢→8号鉢
  • 『ソンブロイユ』6号鉢→10号鉢
  • 『トレジャートローヴ』6号鉢→12号鉢

鉢替えは来週中頃辺りを考えて居たのだが、大きく育って結構根が回り窮屈な様子だったので、待たずに其々新しい鉢へ。誘引してつる仕立てにするものはやや大きめにした。特にトレジャー嬢は抜群に伸びる子らしいので、最初から12号(笑)。正面入り口横に置いて、其処からぐるっと軒沿いにワイヤー誘引したら良いかなぁ、素敵だろなぁ、などと考えて居るところ。


■バラ鉢植え用土の配合

(*数字は容量0.6L程度の深型プラスコップ 1すくい=1として)

以上の資材を数字の割合で配合。用土はその都度作らずに、時間の在るときにまとめて作り置きし、空の土袋に入れて保存して居る。そうして置いておくとカニガラの放線菌が元気に働いてくれて、使う時には土全体に白い菌糸が行き渡って、良い塩梅なのである。健やかなバラは健やかな用土が育むのだ。

ポッケの中の大切な気持ち

|本| |縷々|

家と庭と犬とねこ

家と庭と犬とねこ

  • 作者:石井 桃子
  • 発売日: 2013/05/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

ここに書かれたことの殆どは、戦後間も無しのことだったり、その後の経済成長期のことだけれど、物事の本質や心の在りように時代は関係無いのだな、としみじみ思う。そして、社会の構造のよな部分も、びっくりする程に様変わりしたり、天井と地面とがひっくり返ったりと云う訳でも無い。
桃子先生が東京と山の家とを頻繁に行き来しながら、山での共同生活を支えて居た頃の、都会の食料や経済のずっと底辺、作り手がその向こう側に居ることを、一向に気に掛けることのない風潮。キラキラとした都会と肥やしのにおいの田舎、と云う構図。桃子先生は両者の間の絶対的な溝や格差に、苛立ちや憤りを決して隠さない。正しい怒り。いっそヘラクレスみたいな巨人が、この難儀な問題を力技でもって「えいっ!」とやってくれたらなぁ、と願うもどかしさ。その一方で、都会へ出る度にうんざりさせられる”殺人的満員電車”への嫌悪は、何処かおかしみが在って印象的である。本書の中へ幾度も登場するくらいなので、案外先生はこの命名を気に入って使って居たのじゃないかしら(笑)。
都会の暮らしの目まぐるしい慌しさ、他人の愚痴話やら相談話を受けるばかりの毎日、人の嫌なところや身勝手さに心身疲れ果てて居たときに、突然颯爽と現れたバスの若い娘車掌さんの、その輝くよな溌剌さや気遣い、懸命に働く姿の美しさへの感動。山の家での質素でつましい暮らしの中、ささやかに祝うクリスマスと、モノもお金も無いけれど、贈る相手を大切に思いやって心を込めて拵えた贈り物。”おきぬさん”を始めとする犬や猫たちとの関わり、思い。
頁をめくってそれらに触れるにつけ、心がわざわざとしたり、きゅうとなったり、クスっとさせられ、ときには堪えきれず声に出してワハハと笑い、そうして感じたことを全て、丁寧に折り畳んで、ポッケの中へ仕舞っておきたいよな、大切な心持ちになる。生きることを、真面目に生きよう、と思う。


桃子先生。昔に比べたら、今の田舎は確かにずっと便利に、文化的になったでしょう。あらゆる場所で (良し悪しは別として) モノが溢れ返り、新たな手段が情報が次々と与えられ、誰もが便利で文化的な生活を得たように見えますが、しかしちいとも豊かではありません。便利さやお金、モノ、手段、情報が入り込むごとに、人はどんどん身体感覚を失い、大人はどんどん幼稚になり、我が我がと身勝手になり、一匙のユーモアを忘れ、殺伐といがいがとなるばかりで、自らの力で考えたり行動したり、他所の人を思いやったり労わったり。そう云う、当たり前だったことができなくなってしまいました。
昔と今と、どちらが良い時代でどちらがそうでないのか、それを計ることは容易にできないでしょうし、私にも分かりませんけれど、生きると云うことは。人が人らしく生きると云うことは、自らの体を頭を心を使って、実際に見て触れて感じて経験することで、それらを一切省略し、人差し指を無為にすべらせて何でも済んでしまうのは、実体の無い世界に居るよなもので、”人らしく生きて居る”とは云わないよな、そんな気がして居るのです。

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