双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

ポッケの中の大切な気持ち

|本| |縷々|

家と庭と犬とねこ

家と庭と犬とねこ

ここに書かれたことの殆どは、戦後間も無しのことだったり、その後の経済成長期のことだけれど、物事の本質や心の在りように時代は関係無いのだな、としみじみ思う。そして、社会の構造のよな部分も、びっくりする程に様変わりしたり、天井と地面とがひっくり返ったりと云う訳でも無い。
桃子先生が東京と山の家とを頻繁に行き来しながら、山での共同生活を支えて居た頃の、都会の食料や経済のずっと底辺、作り手がその向こう側に居ることを、一向に気に掛けることのない風潮。キラキラとした都会と肥やしのにおいの田舎、と云う構図。桃子先生は両者の間の絶対的な溝や格差に、苛立ちや憤りを決して隠さない。正しい怒り。いっそヘラクレスみたいな巨人が、この難儀な問題を力技でもって「えいっ!」とやってくれたらなぁ、と願うもどかしさ。その一方で、都会へ出る度にうんざりさせられる”殺人的満員電車”への嫌悪は、何処かおかしみが在って印象的である。本書の中へ幾度も登場するくらいなので、案外先生はこの命名を気に入って使って居たのじゃないかしら(笑)。
都会の暮らしの目まぐるしい慌しさ、他人の愚痴話やら相談話を受けるばかりの毎日、人の嫌なところや身勝手さに心身疲れ果てて居たときに、突然颯爽と現れたバスの若い娘車掌さんの、その輝くよな溌剌さや気遣い、懸命に働く姿の美しさへの感動。山の家での質素でつましい暮らしの中、ささやかに祝うクリスマスと、モノもお金も無いけれど、贈る相手を大切に思いやって心を込めて拵えた贈り物。”おきぬさん”を始めとする犬や猫たちとの関わり、思い。
項をめくってそれらに触れるにつけ、心がわざわざとしたり、きゅうとなったり、クスっとさせられ、ときには堪えきれず声に出してワハハと笑い、そうして感じたことを全て、丁寧に折り畳んで、ポッケの中へ仕舞っておきたいよな、大切な心持ちになる。生きることを、真面目に生きよう、と思う。


桃子先生。昔に比べたら、今の田舎は確かにずっと便利に、文化的になったでしょう。あらゆる場所で (良し悪しは別として) モノが溢れ返り、新たな手段が情報が次々と与えられ、誰もが便利で文化的な生活を得たように見えますが、しかしちいとも豊かではありません。便利さやお金、モノ、手段、情報が入り込むごとに、人はどんどん身体感覚を失い、大人はどんどん幼稚になり、我が我がと身勝手になり、一匙のユーモアを忘れ、殺伐といがいがとなるばかりで、自らの力で考えたり行動したり、他所の人を思いやったり労わったり。そう云う、当たり前だったことができなくなってしまいました。
昔と今と、どちらが良い時代でどちらがそうでないのか、それを計ることは容易にできないでしょうし、私にも分かりませんけれど、生きると云うことは。人が人らしく生きると云うことは、自らの体を頭を心を使って、実際に見て触れて感じて経験することで、それらを一切省略し、人差し指を無為にすべらせて何でも済んでしまうのは、実体の無い世界に居るよなもので、”人らしく生きて居る”とは云わないよな、そんな気がして居るのです。

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