双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

言葉を使うから愚図になるにゃりよ

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ハレルヤ

ハレルヤ

前エントリに触れた保坂和志の短編集。
表題作でもある『ハレルヤ』は、保坂家に十八年暮らした”花ちゃん”と、その死について書かれた短編である。以前に取り上げた『生きる歓び』()とは、内容的に繋がって居る部分も多いので、続きのお話とも云えるだろか。*1
『生きる~』で保坂家の一員となった片目の花ちゃんは、本作で十七歳一か月の頃に悪性リンパ腫が見付かり、十日から二週間との余命宣告を受けながらも、それから一年以上生きて十八歳と八か月でこの世を去った。

花ちゃんが保坂家にやって来る少し前。夫妻は世田谷に新築一戸建ての購入を考えて居り、不動産屋に値引き交渉を持ちかけて待つも、なかなか返事は貰えない。この話はきっと駄目なのだな。そう諦めて居た丁度その頃、谷中の墓地で拾った花ちゃんを飼うことになる。すると不思議なことに、例の不動産屋から突然の電話が在り、値引き(希望額の半分)に応じると云うので、結果的に夫妻はその家を購入することとなる訳だなのだが、そのときの経緯を氏はこう振り返る。

 あの谷中墓地で、私たちには見えなかったが花ちゃんの向こうに神さまが立っていて、「この子は目が片方ないから、そのかわりに新築の家をつけてやることにしよう。」と言っていた。と家の話が決まったあと私と妻は話した、この話はその後も何度も二人でした、というか私がした。私はあのとき本当に花ちゃんの向こうに神さまが立っていた風景になっている、妻はこの風景にどこまで賛成がわからないが妻も花ちゃんに神さまがあのときだけでなくずうっとついていたと言っている。
 猫を大事に大事に飼っている人はみんな猫には神さまがついていると言う。それはいわゆる神さまとは少し違うかもしれない。ユダヤ教キリスト教の、一神教の、厳しい神とはきっと違う、かといって八百万式の、何にでも神が宿るようなイメージの神でもない、猫についている神さまはそのつどは特定の猫についているように人には感じられるが、総体としては一人ということになるのではないだろうか、気象とか地球の上でさまざまに姿を変える水とかが私には一番ちかく思える、こういうことは猫と神さまとのあいだで交わされた約束だから人間が自分の目や耳やそれら五感で物質を理解しているような仕方で理解できるものではない。
 私はあのとき谷中の墓地で、陽だまりですやすた眠っていた小さい和菓子のおまんじゅうみたいだった花ちゃんの向こうに神さまが立っていたと、見て来た光景のように思い出す、私は人間だからそのようにしか思い描くことができない。


私はこの印象的な件が好きだ。道端で無防備に眠りこける、ちいちゃな花ちゃんの様子がありありと浮かぶのは勿論、ここで語られる「神さま」と云うのが、所謂宗教的な神様のことではなくて、例えば単に”猫の神さま”と云うよな、何かふわんとしたやさしいもので、けれども「こういうことは猫と神さまとのあいだで交わされた約束だから人間が自分の目や耳やそれら五感で物質を理解しているような仕方で理解できるものではない」と。 猫と長く暮らしたことの在る人なら、それがどう云うものか。感覚的に分かるのじゃないかと思う。
花ちゃんの向こうに立って居た神さまは、チャーちゃんを失った哀しみの未だ癒えぬ夫妻の元へ、花ちゃんを寄越した。花ちゃんは”花ちゃん”そのものだけれど、チャーちゃんでもあって、やがて花ちゃんの中へチャーちゃんの存在を見付けられるよにした。こう云うことを言葉で説明しようとすると、圧倒的に足りないことを痛感する。鈍さがもどかしくなる。私はアーロンが旅立ったすぐ後のピピンで同じよな経験をし、その一年半後のビルボのときもそうだったから、尚更なのだが、この「居ないけれど、居る」と云うことの意味を説明するのは、ややこしい。ややこしいのは言葉を使おうとするからで、けれども感覚として感じること自体は、ちいともややこしくないのだ。*2

保坂氏は「言葉を使うから愚図になるにゃりよ」と花ちゃんを吹き替える。人間は何だか面倒だね。猫は言葉なんか使わなくても、相手の心へ語り掛けられるよ、と。「心に過る感触に言葉を与えようとして、感触をだいぶ薄めたり、場合によってはそれの逆になる言葉を手にする」人間。一方「心に過る感触をそのまま持つ」猫。

 花ちゃんはご飯の手前で折り返して元いた窓際で横になった。花ちゃんは「あたし、治ったんだよ」と、それを私に見せるために部屋の隅から逆の端まで一往復歩いて見せたのだった。
 花ちゃんと私たちは気持ちが通じ合っている、という月並みな言い方でなく、花ちゃんは時に、私たちの気持ちを使って自分の気持ちをあらわすようなことをしていた、昔話や民話に動物がたくさん登場するのは人間には動物を介さないとわからない、愚かさというのか鈍重とうのか、そういうところがあるからなのかもしれない、動物の鋭敏な聴覚や嗅覚をフィクションのつもりで入れてようやく自分にもそれが備わっていたことに気づくというような。


人間は言葉を使うから、他の生き物よりも高等だとか、特別だとか云う人が在るけれども、実に愚かなことだ。確かに言葉は素晴らしいが素晴らしいのと同じくらい、場合によってはひどく不便だし、邪魔なことさえ在る。言葉には限界が在る。
恐らく、我々人間は言葉やら文明やら何やらと、人間が人間である所以の諸々を手に入れるのと引き換えに、元々備わって居た筈の感覚と云うのか、能力と云うのか。目に見えるものや、言葉で理屈ではっきりと説明のできるもの以外の。そうしたものを”感じる”力をすっかりと失ってしまったのだと思う。猫ら動物はそれを普通に持ち続けて居て、人間みたいに易々と手放したりはしないだろう。
花ちゃんは「死は悲しみだけの出来事ではないということ」を、猫たちが元来持つ能力の高さや異質さを通して、(それらを失ってしまった)人間に教えた。そして過去・現在・未来みたいな (一方からもう一方へと向かって流れてゆく)「時間」と云う概念に縛られなければ、花ちゃんのよに、それはずっと「一日一日」なのだろう。毎日がいつも、一日一日。
なんてことを、ああだこうだこねくりまわしながら、ずっと考えて居る。

*1:尚『生きる歓び』は本作に再集録されて居る。

*2:所謂、スピリチュアル云々とも違うんだな。そもそも、ああ云うのは興味が無いわねぇ…(笑)。

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