双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

メメント・モリよりもカルぺ・ディエムを

|縷々|


数日前から、また保坂和志の『ハレルヤ』を読んで居る。

キャットタワーの箱の中から、花ちゃんの叫んだ「キャウ!」には、
先に旅立ったペチャもジジもチャーちゃんも皆が加わって居て、
それは”生きている”ものと”死んでいる”ものとが共鳴し合った
「すべての始まりの合図」であり「流れていた時間を断ち切って、
過去とか現在とか未来とか関係なくしたということ」なのだと。
頁をめくっては戻りして、同じところを繰り返し読みながら、
そうして、やっぱり分からなかったり、あ。そうか、と思ったり。


”生きている”も”死んでいる”も、文法的には現在進行形なのだよな。
ならば「生を生きている」と云うのと同じよな使い方で
「死を生きている」と云うのだって、おかしくないのじゃないか。
前々から、心のどこかで漠然と感じて居たこと。
”生”と”死”とが (意味にしろベクトルにしろ) 相反するものでなく、
同じ一本の線上に同時に存在するものと考えれば、
色んなことが、すとんと。腑に落ちるよな気がする。


今日もまた、雨が降って居る。
新聞でもテレビでも、今までにない程”死”の文字を目にする日々。
トーストをかじり、珈琲を飲みながら、ふと思う。
若い頃なら「メメント・モリ (死を思え)」だったろうけれど、
今なら「カルペ・ディエム (今を生きよ)」と云おう。

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