双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

猫が居る

|本| |猫随想|

生きる歓び

生きる歓び


今朝ゴミ出しに出たら、お外っ子のお嬢が丁度寝箱から起き出して来たので、一寸お待ちね、とご飯を用意してやって小さな頭を撫でようとしたところで、片耳に瘡蓋らしきを拵えて居るのに気付いた。見たところ喧嘩傷では無く、どうやら野ネズミの反撃の痕らしい。他も一通り調べたが、傷はそれ以外に無かったので、消毒して薬草入りの軟膏をつけてやった。室内組の坊っちゃんらは兎も角、お嬢は鳥や野ネズミを相手にこうして怪我を拵えてくるので、手当ての世話がしばしば欠かせない。
それ以外にも外暮らし故に何かと心配の種は尽きず、従って常に心の何処かで「もし…」と云う言葉が燻って居るものだから、お嬢につい甘くなってしまうのは仕方の無いことか。丸めた脱脂綿やら何やら後片付けしつつ、こうして猫たちのお世話が日常に組み込まれて居ることの至極当たり前の様に、自分が何の疑いすら持たずに在るのに気付いて頬が緩み、そうしてふと、保坂和志の『生きる歓び』の中の、或る件のことなど考えて居た。


『生きる歓び』は、保坂夫妻が墓参りへ出向いた先の谷中の墓地で、偶然に見掛けた”和菓子の饅頭を二つくっつけたぐらい”の野良の子猫を保護して連れ帰り 、やがて”花ちゃん”として保坂家へ暮らすこととなる顛末について書かれた短編なのだが、作中にこんな件が在る。
子猫を保護して連れ帰ることに決めたものの、子猫は衰弱して健康状態も悪いので、当然世話にかかりっきりとなる。そうしたら、現在取り掛かって居る小説は中断せねばならぬし、二匹の先住猫との兼ね合いやら何やらも問題となろう。そうしてその足で出向いた旧知の動物病院で「全盲かも知れない」と云われたことで、保坂夫妻は「もう、しょうがないな」とすっかり全部を受け入れてしまってサバサバとなるのだ。

でも状況を引き受けてしまえば、谷中の墓地でさんざん感じていた飼うことの手間に対する躊躇は関係なくなっていたし、小説の中断なんかも全然関係なくなっていた。それより横浜ベイスターズの試合を当分見に行けそうもなくなったことの方が残念だった。
これでしばらく子猫の世話にかかりっきりになることが決まり、その間自分のことは何もしない。大げさに聞こえるとは思うが、自分のことを何もせずに誰かのことだけをするというのは、じつは一番充実する。野球やサッカーの応援だってそうだ。
(中略)
人生というものが自分だけのものだったとしたら無意味だと思う。人が猫にかかりきりになるというのを、人間が絶対だと思っている人は無駄だと思うかもしれないが、私はそう思っていない。
(中略)
二年前に家の一番若かった猫がウィルス性の白血病を発症して、一ヵ月その世話だけに使ったとき私は、自分以外のものに時間を使うことの貴重さを実感した。
そう書くと、すぐに私が常時それを望んでいると誤解する人が必ずいるけれど、望んでいるわけではない。そんな時間はできれば送りたくない。逃げられないから引き受けるのだ。そして普段は横浜ベイスターズの応援にうつつをぬかしていたい。


この件を初めて読んだとき、自分の置かれた立場を自ら納得できた、と云うのか、ものすごく腑に落ちたのを覚えて居る。嗚呼、そうなんだよ、そうなんだよなぁ、と。故アーロンの看取りのときは、突然の病発覚と余命宣告に頭の中が真っ白となり、兎に角、自分自身を平静に保つことだけでも必死で、全部がいっぱいいっぱいで、とてもそんな風には考えられなかったし、やがてそんな風に思い至るよになるとは考えもしなかった訳だけれど 、不思議なことに、いっぱいいっぱいながら、頼りなくも看取りの覚悟を受け入れた最後の二か月弱は、何故だかとても充実した日々であった。やり切ったと云う充実した思いと同時に、”たられば”の後悔や自責の念も当然ながら在ったが、しかしそのときの苦い経験や至らなさが、現在に繋がって居ることは確かで、若旦那、忍びちゃん、そしてお嬢。皆縁在ってここへやって来て、そうして彼らから命を預けて貰って居るのだ、と云う当たり前の事実に改めてはっとしたのだった。たかがお世話はされどお世話。世話人次第で如何様にもなる。
氏は「そんな時間はできれば送りたくない。逃げられないから引き受けるのだ」なんて書いて居るけれど、つまり云い換えれば「(猫が) 居なければその必要はないが、居るから引き受ける」なのだろうと思うし、何だかんだ云っても結局は”引き受ける”のだろうと思う(笑)。


以前に観たドキュメンタリ番組『猫も杓子も』の”保坂和志とシロちゃん”の回*1では、氏が台所で外猫シロちゃん用のご飯のグラムをちまちまと計り、ひとつひとつラップに包み、カレンダーにこちゃこちゃ書き込み、玄関先へ専用のハウスを整え、一日に何度も様子を見に外へ出て、それを律義に黙々と淡々と毎日繰り返す様は、既視感と云うのか何と云うのか。共感をひょいと通り越して、深い親和みたいなものを覚えないでは居られず、そうか。それはつまり、氏の猫に対する”猫観”みたいなものと自分のそれとが、かなり近いところに在るからなのだろな、と深く頷いた。
私は確かに、猫のお世話に明け暮れて居る、と充分に自覚して居るが、そのことが不本意であるとか、或いは自分の何かを犠牲にして居るだとか、そう云う風には全く考えたことが無い。考えないどころか、むしろそれは私自身に与えられた、代えのきかない役割みたいなものである、と常々感じて居るし、しかしだからと云って、猫たちのお世話だけが特別なことだとも思わない。猫の世話に明け暮れることも、仕事も、家事も、趣味の時間も(何で構成されるかは人によって異なるだろうが)、全ては同じ日常の中の同じ線上に在るものなのじゃなかろか。


自分以外の存在に心を寄せ、目を向けたとき。見えなかったものが見え始め、気付かなかった事実に気付かされる。そこには豊かな時間が在る。私の場合、それがたまたま猫であった、と云うだけのことだ。日々に猫の居ることが、当たり前であることの、仕合せ。

*1:番組の中で保坂氏はこんなことを云って居る。どうしてそこまで猫に入れ込むのか?と聞いてくる人が在るが、おかしいでしょう。猫だとそうやって聞いてくるけれど、高校球児にどうしてそんなに野球してるの?とは聞かないでしょう。皆”どうして”を考え過ぎなんじゃないの、と。保坂節だけど(笑)、実にその通りと思う。

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