双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

太極を知る

|本| |太極拳|


目下勉強中の一冊。

至虚への道―太極拳経解釈

至虚への道―太極拳経解釈

太極拳の根源である”太極拳経”を分かり易く説いた本書は、所謂、技術的な指南書とは異なり、陰陽思想など哲学的な意味合いが大きいため、幾度も読み返してようやっと腑に落ちたり、更に疑問が生まれたり、と実に奥が深い。教室ではさすがにここまでは教えて頂けぬので、知りたければ自分で勉強しよう、と想った次第。


静動、陰陽、虚実、柔剛、順背など。太極拳は互いに相反する様々の要素で成り立って居るのだけれど、しかしそれらは必ずしも言葉通りとは限らない。”静”一つ取ってみても、その中には”動”が含まれて居たり、何かの拍子に互いが入れ替わったりもする。文中で「○○ではあるが、必ずしも○○では無い」と繰り返されるよに、物事や状態は”絶対的”な面と”相対的”な面、その両方から捉えることが大切で、例えば”順と背”。必ずしも、順=自然、背=不自然とは限らず、自分にとって気持ち良く自然に感じられる動作が正しく、不自然でやり難い動作は間違い、と言葉通り安易に考えるのは誤りである、と説かれて居る。ついこないだの稽古で、正しい動作には違和感云々と、まさに身をもって体験したばかりだったので、改めて腑に落ちた。成る程なぁ。
又、太極拳に必須の”滑らかな重心移動”には、足の裏の感覚が大変重要とされるが、その足の裏の感覚を磨くには、先ず神経と脳(=心)を鍛えねばならぬ、と。太極拳では肉体そのものを鍛え上げることよりも、鍛えるべきはむしろ、心であり、そして”心の鍛練”を積み重ねることによって、自ずと肉体も鍛えられてゆくのであろう。
因みに、その名の由来である”太極”とは、二つの要素のどちらでも無い、ニュートラルな状態のこと。「何も無いところ(無極)から生じて、動き出し、要素の発生するきっかけを与えるもの」とされ、そして、そこから与えられた”動き出し”や”要素の発生するきっかけ”は、常に相手の側に在って、自分の側では無い。相手の、自分の、そして双方の間の陰陽変化を感じ取り、腕力やスピードなどの力技で積極的に相手を負かしに行くのでは無く、己が常に太極の状態を保ちながら、過ぎることなく。及ばざることなく。相手の作ったきっかけ、状態、変化に対応し、追従して自らの陰陽をコントロールする術。それが太極拳の醍醐味なのである。
未だ未だ分からぬことばかりで、更に先へ進まないと実感できぬ部分も多いけれど、だからこそ、じっくりと学ぶ意義や喜びが在ろう。私なりに思い浮かべて居る太極のイメエジは、あらゆる物事や要素をあまねく、大らかにまあるく内包した、遥々とでっかい球体みたいなもので、その中では相反するものも、結果的に全てが混ざり合って溶け合って、終いには美しい調和を生む。そんな感じである。太極を知り、陰陽を感じ取れるよになるのは、はてさて、いつのことやら...。

<