双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

かまけてばかり居る

|本| |猫随想|


猫にかまけて

猫にかまけて

暇さえ在れば、猫にかまけてばかり居る。拙宅の猫にかまけるのは勿論、路上に出くわす猫や、今は記憶の中に住む猫ら。果てはやれ、活字の中の猫にさえ現前とかまけて居る有様である。こと一冊まるっと猫について綴られたものなどは、それがたとい他所宅の猫であっても、読んで居るうちに何やら近しい存在のよな気がして、親和を寄せずに居られず、そうして読み終える頃ともなれば、すっかり実際に知った猫のよな心持ちなのだ。
町田氏が自身の猫を著したエッセイの中でも、とりわけこの本が好きであるのは、恐らく”ゲンゾー”の存在が大きい。彼の人懐こさや友情、大柄な体は、かつて実家に長く暮らした”ふう”を。如何にも雉トラらしい風貌は、同じく実家に暮らし、しかし或る日に蒸発してしまった”タロー”を。奇行の数々や多趣味は、現在拙宅に暮らす”ピピン”を其々に想わせるからだろか。本書には彼の他にも、ココア、ヘッケ、奈々と云う何れも個性的な猫たちが登場するのだけれども、先に述べた事柄故か、私はゲンゾーへ特に心を寄せてしまうのである。
かつて氏が、バンドのドラマーから貰い受けたと云う、立派な体躯の雄の雉トラであるゲンゾーは、大層愉快な気の良い猫であり、狩りに出掛けたところで、咥えて戻って来るのは鳥でも虫でも無く、大概がつくねの串やら菓子箱の類。多くの奇妙な趣味を備え、又先輩格ココアとの屈折した上下関係なども、実に可笑しい。そんなゲンゾーは、しかしながらこの続編にあたる『猫のあしあと』にて、或る日、突然に。本当に突然に、この世を去ってしまう。そのあまりにも理不尽で短兵急な出来事に、氏は只々途方にくれ喪心するのであるが、ここでのゲンゾーは未だ在りし日の、元気で愉快なゲンゾーであり、そして又、町田家の人びとと猫らが、最も平穏であった日々でもあろうかと想う。勿論、本書には愉快ばかりが書かれる訳では無い。道端で瀕死の瀬戸際を助けられたヘッケは、看護の甲斐在り、一旦は元気を取り戻したものの、元々持って居た病を発症させて、あまりに短か過ぎる儚き生涯を閉じる。気風の良い老姉御ココアは、いよいよ以って、二十数年に及ぶ長い長い生涯に幕を引く。しかしながら、ヘッケ亡き後に迎え入れられ、まるでヘッケの生まれ変わりとしか考えられぬよな奈々や、その奈々のどつきまわしを甘んじて受け入れるゲンゾーらの残る町田家の暮らしは、ここに未だ穏やかさを漂わせて居るよな気がするのだ。
本書以降『猫のあしあと』『猫とあほんだら』へと続くに従って、町田家には猫の保護団体から次々と病気の猫らが持ち込まれるよになり、次第に”かまける”どころでは無くなってくる。彼らを引き取ることが殆ど義務となってゆく様や、東京から熱海に新たな住まいを求め、更に大所帯となって猫小屋を建設せざるを得なくなってゆく様などは、次第に切羽詰ると云うか、のっぴきならないと云うか。確かに、そうした行いは大きな覚悟や決心の要ることで、ましてや誰しもができる訳では無いから、大変に素晴らしいことではあるのだけれど、読み進めるうちに何やら、少々気疲れてしまうところが在り、それ故に本書の持つ穏やかさ、暢気さの方へ、より心が向くのかも知れない。
まぁ、兎にも角にも。人生に猫が在るのは、実に愉快、実に素敵なことと想う。

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