双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

紙とペン

|徒然|


言葉を、文章を大切に扱う人のブログと云うものには、不思議と共通する匂い、手触りが在る。勿論、其々の個性が在り、其々の形が在るのだけれど、はっと心を惹きつける共通の要素が、ひっそり、控えめに漂って居たりする。電脳世界に在っても、紙の上へ肉筆で書かれたよな雰囲気を持って居る。私は、そうした人たちの書くものが好きだ。誰かの受け売りであったり、誰かの模倣であったりせず、その人の言葉で、心根で書かれる文章。添えられる写真。そんなブログでは、例えばそれが「今日○○を食べた」と云っただけの、一見単なる記録のよなものであっても、一枚の写真と短い言葉の中へ、その人の”書くこと”への姿勢がはっきりと表れる。センス、人となりが表れる。
ツイッターソーシャルネットワーク隆盛の中に在って、ブログの存在が今や過去のものであることは否めない。しかしそれでも、私がこの長屋横丁に居を構え続ける理由は、元来の偏屈に加えて、内輪のおしゃべりや140字には持ち得ないであろう魅力が、もはや古臭いだけかも知れないブログには確かに在る、と想うからである。
人が言葉を綴るとき。それはその人自身の手で紙の上に書かれるもので、それは又、ブログと云う場所であっても可能なのではなかろか、と想うからである。”声”では無く、”文字”で。一箇所に居を構えるのなら、フットワークの軽さを求める必要は無いだろうし、長屋の住み心地と風通しの良さを知ったら、会員制高層マンションの閉塞感は鬱陶しいだけだ。それに、魅力的な長文の醍醐味をしみじみと味わえるのも、やはりブログの大きな魅力であろうし、幸いこのはてなの長屋横丁には、センスの良い長文を書かれる人たちが住まってらっしゃる。*1個人的に心惹かれるブログが、何故共通して、紙と手書きの匂いを漂わせて居るのか。書かれる題材や内容は勿論だが、ブログの設えや書体の選び方、書き方と云った、佇まい云々に依るところが大きいよに感じるのだけれども、それが至極自然に当たり前に、その人の言葉や文章に対する向き合い方へ繋がって居るのだ。そう、ブログ自体をその人の”家”と考えると、分かり易いだろか。
家の佇まい。色、部材、様式。表札や玄関の戸の形。こじんまりした庭が在ったり、縁側が在ったり。部屋の音楽棚、本棚にはどんなものが並んで居るだろか。障子と硝子では光の具合も違うだろ。つまり、自分が見て、読んで、しっくりとくる形と云うのは、自らの心地良い住まいを整えるのと似て居る。既存の住まいに塩梅の良いのを見つけて、そのまま住まう人在り。其処へあれこれと自ら手を入れて改装し、より住み心地の良い風に整える人在り。人によってその形は様々なれど、そうした勘所を心得た人のところには、不思議と共通する佇まいが在る。だからこそ、その人と云う人間が、姿勢が浮かび上がる。言葉を丁寧に扱って居る、と感じられる。そしてそれを自分と同じよに感じてくれる人が、たとい僅かであれ、何処かに必ず居るのだよな、と想う。けれども一方で、自らの住まいに無関心(決して無頓着とは違う)な人の書くものは、同じくその住まいに連れて、只だらだらと扱われた言葉が雑に投げ出されたままであったり、内容も何処かの誰かの受け売りみたいで、心に引っ掛かるものが無い。薄っぺらで、つまらない。
PCはデスクトップ派である。従って、こうして何かを書くと云うと、その都度自らが動いて其処まで赴き、電源を入れ、卓上をざっと片付け「さて、今から書くぞ」と、新たに気持ちを切り替えねばならないのだが、それはもしかすると、文机の前に向かい、抽斗から紙を用意し、インク壷の蓋を開けてペンを持つ、と云う一連のアナログ的支度にも似た姿勢で向き合いたい、と云う気持ちが潜在的に在るから、なのかも知れない。*2はてなの長屋横丁のご近所さん方の中には、別宅をお持ちで、長くお留守の方々もいらっしゃるのだけれども、またこの長屋横丁へふらり戻って、素敵な文章を書いて下さると良いな、と待ち遠しく想う。

*1:そう云う人は大概、短文であれ写真であれ、同様に魅力的なのである。

*2:散々偉そなことを書いておきながら、自らは如何なものか、と問えば只下を向いて、ポリと頭を掻く他ないのだけれども・・・。棚の上に上げておく(笑)。

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