双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

十一月の家

|徒然|

母方の祖母が骨折のため入院して居ることは、少し前に書いた。途中、持病の糖尿病の影響も在って、軽い肺炎を起こすなどして身内を心配させたものの、現在は食事も摂れるよになって、緩やかながら回復へ向かって居る。七十を過ぎてからの祖母は、自転車で転倒した後遺症で左半身の自由が利かず、年を経るごとに段々と固まって、今では僅かに動かせる程度。十年程前に夫と離縁して出戻った末娘のH叔母が同居して居り、七年前の大晦日に祖父が他界して以来、母娘の二人暮らしとなった。
骨折の経緯は、丁度ひと月前。インフルエンザの予防接種を受けた日に、夕食を食べて立ち上がったところ気分が悪くなり、ふらとよろけたと想ったら、普段は曲がらぬ左の脚をぐにゃりとやって、予期せず転んでしまったのだ。骨折したのは不自由な方の脚であったので、是を不幸中の幸いと考えたいものだが、何しろ八十も半ば。今だって杖をつき、傍らに付き添いが居てやっと歩ける状態だのに、長い入院の後には、殆ど歩けなくなってしまう心配が先立つ。
H叔母は美容関係の仕事に就いて居るものの、それだけで生計をたてるのは難しく、故に祖母と暮らすことで何とかなって居ると云うのが現状である。祖母は週に三回デイサービスへ通い、それ以外の日は、H叔母の出掛けた後、隣のWさんと裏手のYさんがやって来て、日がな一日。取り留めの無い茶飲み話などしながら過ごすのが見慣れた風景。其処へ時折、近くの独居老人向けの施設に越して来た、祖父の妹であるところの、大叔母・ヨネちゃんが加わることも在り、祖母宅の茶の間は、さながら皆の寄り合い場のよになって居た。隣人のWさんは六十代で良く気の付く朗らかな人だが、どうやら訳在りの息子さんが居るらしく、そのことについて私たちは詮索したことは無いし、Wさんも話したことは無い。Yさんは息子さんと二人暮しで祖母と年は近く、滅法耳が遠いのだけれど、ああして会話の成り立って居るのは、実に不思議なことである。
それが、祖母の入院以来。皆が何だかそわそわして居る。H叔母は、このまま祖母が車椅子になってしまったらどうしよう、などとあれこれ心配ばかりして居り、Wさんは、毎朝H叔母と顔を合わせれば、急に寂しくなっちゃったねと涙ぐみ、Yさんは、何だかぼんやりとして居ることが多くなって、同じことを何度も云ったり訊いたりするよになった。ヨネちゃんも、施設から程好い距離の散歩先が無くなってしまって、少し元気が無い。私たちは今の今まで、祖母がご近所さんらに面倒を見て貰って、助けて貰って居るものだとばかり考えて居たが、実はそうじゃ無かったのだと気付いた。祖母を、祖母の居る茶の間を、皆が拠り所として居たのだ。
其々に自分の住まいが在るのだから、祖母の入院によって日中の祖母宅が留守となっても、別段困ることなど無かろうと想うかも知れないけれど、一日の大半を室内に篭もって過ごす息子を持つ、専業主婦のWさんには、他愛無い世間話をしたり祖母の身の回りの世話をすることが、僅かな救いとなって居たろうし、Yさんは耳の遠くて忘れっぽいことが気掛かりで出不精だから、気の置けない祖母宅で過ごす時間が、唯一の愉しみであったろう。H叔母だって同じ。母と娘の間柄、介護しいしい云いたいことを云い合い、末っ子特有のきかなさで踏ん張って居るよに見えたし、本人もそう想って居たに違いない。しかし、いざこんな風になってみると、生活の面は勿論、精神的にもどれだけ祖母を頼りにして居たのか、その不在によって知らされることとなったのではなかろか。そうなのだ。祖母の存在が、祖母の茶の間が。皆の心の拠り所として日々の中に、至極当たり前のものとして溶け込んで居たのだ。互いに支えて、支えられて。
それを想ったとき、私はふと 『ムーミン谷の十一月』 を浮かべた。冬を前にした主の居ない家。其処へ心を寄せる人々。心配性のH叔母はヘムレンさん。Yさんはやっぱり、スクルッタおじさんかな。Wさんは、何処と無くフィリフヨンカに似て居るし、小柄なヨネちゃんはホムサ・トフト。皆、ムーミン婆さんに会いたくてやってきたのに、婆さんは其処に居ないんだ。灯の消えて、心寂しい、十一月の空っぽの部屋。
ねぇ、ばあちゃん。皆が恋しがって居る。H叔母は誰も居ない家に帰るのが切ないって。ムーミン婆さんの茶の間の炬燵に、お茶とお茶菓子とが乗って。Wさんの朗らかな声と、Yさんのとんちんかんな受け答えと、ヨネちゃんの相槌とが戻って来るのは、いつのことなのだろね。

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