双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

コドモノリョーブン

|回想|

大きな木が一本と、子供がまたいで渡れる程のちいさな池。アトリエの木枠の窓から顔を出すと、丁度そこから、自然に任せた庭が見渡せたものだ。子供の頃、就学前から小学校を卒業するまでの間、私はと或る絵画教室に通った。便宜上教室とは云ったが、そこは拍子抜けする程自由な場所で、子供たちは学校が終わると好きな時間にやってきて、或る子は寝転んで、また或る子は椅子に座って、各々その日の課題を終わらせ、好きな時間に帰ってゆく。教わるのも絵画だけはで無かった。木版画、粘土、ローソク作りなどなど。高学年の希望者は、先生が原毛から染色して紡いだ毛糸を使って、機織りも教わったり。勿論、小学生の他、曜日ごとに中学生や高校生も居たし、美大を受験する生徒のためのデッサンの時間も割かれたが、そうした場合を除いて、本来木版画を専門とするK先生は、常々子供たちが描いたものに、ああだこうだと細かく指導することが殆ど無く、たまに「ここをこうすると、もっと良いのじゃないかしら?」と云う具合に、殆どが子供たち其々の自主性に委ねられ、好きなよにさせて貰って居たよな記憶が在る。
アトリエと呼ばれた教室の建物は、先生の家の敷地内の西側に在って、丁度、北側の母屋とは庭を囲む風にしてL字に隣り合って居り、おんぼろのトタンと木で出来た、プレハブのよな建物だったのだけれど、その真裏に、どうやら音楽教室の在るのを知ったのは、はて、いつ頃だったろか。夢中になったりぼんやりしたりしながら、床に突っ伏して画を描いて居ると、ふと、何処からともなく、くぐもったピアノの音色が流れてきて、それはバイオリンのときもあったよに思う。通りからは奥まって見えないのだが、アトリエの真裏の音楽教室はどうやら木造の古い平屋で、今にして思えば、恐らく戦前からの建物だったに違いない。植え込みのせいで、昼間でも充分に薄暗い隣家との境からは、建物の全容は分からず、ただ、真ん中にひし形の細工の施された、洋風で木枠のすりガラス窓が二つ、確認できるだけだったのを覚えて居る。
K先生には年頃のきれいなお嬢さんが二人居て、お姉さんの方がピアノを専攻して居たので、裏から聞こえてくるピアノの曲で気になるのが在ると「この曲は誰の曲?」と聞いては、これはバッハだとか、これはシューマンだとか教わったりもしたのだけれど、或る日、教室では私が面倒をみてあげて居た、同級生で軽い知的障害を持つM君と二人して、ガリ版刷りで汚れた手を、アトリエの入り口横の表水道で洗って居たときのことだったか。いつも聞こえるのに比べると、随分と軽快なメロディが流れてきたので、私は、何だか妙にその曲が気に入ってしまい、それに合わせて、適当にリズムをとったりした。すると不意にM君が云う。「コドモノリョーブン。」私が聞き返すと、M君は再び云う。「この曲ね、コドモノリョーブンって云うんだよ。おれ知ってるもん。」
後にその曲がM君の云う通り、本当にドビュッシーの『子供の領分』だったことは判明したのだけれど、そのときは、何故M君がそんなことを知って居たのか、それが本当なのかどうかなどは、さして気にも留まらず、ただ『コドモノリョーブン』と云うその言葉の響きと、跳ねるよな軽快なリズムにすっかり魅了されて、気付いたら、後片付けも放り出したまま庭に飛び出して居た。沢山の小人たちが薪を割っては運んだり、大きなふいごを吹かしたり、流れ作業で家を組みたてたりする様子を、私はあの頃、この曲から勝手に頭の中で思い描いたものだった。
大学に入ったばかりの頃、近所のコンビニでアルバイトをして居たときだったと思う。会社勤め風の装いのM君が、ある晩偶然店に来たことがあった。子供の頃と比べると、随分立派ななりになったM君は、レジを済ます間も懐かしそに早口で喋り続け、帰りがけにどう云う訳だか、私ともう一人のアルバイトの子に缶コーヒーを奢ってくれたのだっけ。そのときM君の姿を見て、咄嗟に浮かんだのが『子供の領分』だったのだけれど、今でもあの曲を聴く度、頭に浮かんでくるのは、例の働く小人たちと、アトリエで過ごした土曜日の午後に変わりはない。

<