双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

場所

|縷々| |雑記|


昼時の忙しさが一段落して洗い場を片付けて居たら、カウンターの方から声がして「こんにちはー」と覗き込む人が在る。「はーい」と出ていくと、ひょっこり、懐かしい顔が見えた。あらー、誰かと思えばY君じゃないの!
細長い輪郭にきょろっとしたまん丸の目。頬の辺りは少しだけふっくらしたけれど、そこに立って居たのは紛れも無い、Y君その人であった。「すごいなあ、すぐ分かりました?」そりゃ分かるわよ、全然変わらないものー。「いやぁ、僕のこと憶えててくれたんだ」当たり前でしょ、ちゃんと覚えてますよ。

Y君は十年程前に支店へ異動してきてすぐに、うちの担当となった地方銀行の銀行マンだった。当時二十五・六歳だったろか、製造業の現場から金融業へ転職と云うユニークな経歴の持ち主で、再び異動となるまでの二年余りの付き合いだったのだが、それまでの担当の誰とも違って居たし、現在に至ってもY君の後に彼のよな人は現れて居ない。何と云うのか、凡そ銀行マンらしくなかったのだ。勿論、店へは仕事の用で来る訳だけれども、彼は煙草を吸ったので、煙草休憩も兼ねて居たのだと思う(笑)。加えて珈琲も好きだった。傍から見ればサボりとも見えることも在ったろうが、彼はその辺りが実に上手いと云うか、上司からの探りの電話などにも飄々とすっとぼけて、実に上手く立ち回って居た。しかも毎回珈琲をちゃんと注文して自腹で飲み、時にはお昼ご飯も食べて行ったっけ。

この銀行の気風自体がカチカチして居た所為か、兎に角、堅い印象の人が多かった支店の中に在って、Y君はひときわ異色だったのだ。ひょろりとした背格好、小さくて細長い顔に、特徴的なきょろっと大きな目。何処かイタチにも似たそんな彼の風貌は、確かに青年なのにも拘わらず、時折、中学生とも高校生とも見えた。飄々と捉えどころが無さそで居ながら、今時の若者には珍しいくらいの骨っぽさ、気骨が在ったから、上司や取引先のオジサンたちには案外可愛がられたろう。
変な力みも思惑も無く、人の懐へぽーんと飛び込んでくるよな所が在って、それが彼の彼らしさたる所以と云うか、つくづく面白い子だよな、と思う。時には銀行マンらしく(その見た目に不釣り合いな)相応の硬さや真面目さも当然見せながら、必要とあらばくにゃりと曲げてしまう柔軟な融通と、一見ひょろひょろ~と頼りなさそで (実際はなかなかのしっかり者)、この子大丈夫かしら、と周りがすすんで面倒を見てあげるよに仕向ける、彼ならではの”人徳”(笑)みたいなものが確かに在った気がする。

そんなY君であったが、この三月で銀行を退職し、地元の神奈川へ戻って役所勤めをすることになったのだと云う。退職するまで勤務していた隣県の支店と、その前に居た県内の支店へお礼の挨拶に行く途中、だったらここにも寄れるじゃん!と思い、手土産を持ってわざわざ挨拶に立ち寄ってくれたのだった。お世話になったからって、ずうっと昔に居た町のこんな店にまで、ちゃあんとお土産持って寄ってくれるみたいな、そう云う子、今日日なかなか居ないんだからさ。Y君は偉いよ。私が云うと「そんなこと無いっス」と一瞬真面目な顔になって、でもすぐにくにゃっと笑った。そう云えば珈琲を待つ間、Y君は長い首を傾けて店内を見まわしながら「七年ぶりかぁ」とか「もう七年も経つんだなぁ」と幾度も呟いて居た。

やはり「場所」なのだよな。こうして場所を、灯りを守って続けて居るから、ずっと前に旅立った人も、またここを訪れることができる。たとえ記憶が頼りであっても辿り着ける。これが単に「人」であれば、居所が変わっただけでも、簡単に音信不通となってしまうことがあるけれど、「場所」は閉じない限りは、ずっと同じところに在り続ける。ふと、また行ってみようと思い立ったとしても、ちゃんとそこに在って、以前と変わらずに迎えてくれるのだ。「店」と云う場所。場所が在るから帰って来られるし、ふっと逃げ込める。私たちはやはり、灯りを絶やさずにそこを守ってゆく小屋守、なのだと思う。

四月から役所勤めとなるY君は「ま、一寸不安も在るんですけどね」などと云いつつも、昔と同じ相変わらずの、物怖じの無いあの感じで、Y君なら何処ででもやってゆけるだろな、と妙に納得できるのだった。帰り際、頂きものの饅頭を二つ持たせたら「えーいいよー、かえって申し訳ないじゃん!」しかし、しっかりとポッケに入れて「じゃ、そのうち忘れた頃にまた来ます!」と後ろ手を振りながら飄々と去って行った。しかしあの服、何処で買うんだろね。Aちゃんが見送りながらしみじみ云ったのが、おかしかった。本当にね。何かさー、いつの時代の子よ、って感じなんだよねぇ。

否、良いんだ良いんだ、それで。Y君よ、何処へ行っても君らしく在って下さい。私たちも、できる限りはずっとここに在り続けます。

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