双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

2019年のトーキョー

|徒然|


アーロン亡き後。若旦那に忍び、そしてお外っ子のお嬢、と猫らの頭数が増えるに伴い、其々に個別の世話が欠かせなくなってからと云うもの、東京へ出掛ける機会はめっきり減ってしまった。商業ビルが入れ替わって居たり、以前在った店が閉店して居るだとかは、別段めずらしいことではないけれど、それにしてもここ十年程の変化はめまぐるしく、久方ぶりに出掛けると云うと、ほんの一年かそこいら見ぬ間に、文字通りがらりと風景が一変して居たり、駅の構内あちこちが工事中で迷路みたいだったり。僅かの間のあまりの変わり様に「ええと、ここは…?」と戸惑うことが少なくない。
街。とりわけ都市と云う場所は、変容を余儀なくされる宿命にある。中でも東京はその規模、役割においてとりわけ別格の、常に変容し続ける特殊な巨大都市。しかしながら、日々刻々と進んでゆくその変化の在り様は、都市を歩き、日々を都市に暮らす”都市生活者”でなければ、点在する変化のひとつひとつを繋いで、大きな全体で把握すること。つまり変容の過程を、生きた感覚として、肌で感じることができぬのじゃないかしら、と思って居る。都市に日々を暮らさぬ者には、変化の全容を感じることができない。只そこに在る表層が見えるだけで、点を点としてしか捉えられないから。
はてなハイツのご近所さん、mikk氏の綴られる東京の散策記録が好きだ。東京と云う街、都市の吐き出す息づかい。温度や動き。現在進行形の変容がそこには在って、都市の風景の記録と云うだけでなく、mikk氏の心の目が掬い取った記憶や空気が、写真から、文章から、浮かび上がってくる。物凄いスピードで変わってゆく東京の風景の中を歩きながら、それと同じ目線で”変わらない”風景も映し出される。大きな変化の潮流の中の、変わらずにある場所。矛盾だとか対比と云うのじゃなしに、それが”東京”の”今の姿”なんだよ、と。目を閉じると、すうっと静かに意識がシンクロして、私自身もその景色を歩きながら、街の匂いや息づかいを見たり感じたりして居るよな気持ちになれる。
そんな氏の散策の記録を読み返して居たら、突然に「新東京」と云う言葉が浮かんだ。事実、現在東京で進められて居る大規模再開発は、戦後三度目となる大改造だと云うから、確かに東京は”新たな東京”へと変容を遂げつつあるのだ。そうして、はたと思う。これって、やっぱり「ネオ東京」だよね!!奇しくも今年は2019年。その上、2020年の東京オリンピック開催*1まで同じなのだものねぇ。何だか感慨深い。
東京は常に流動し、変化を続けることを求められてきた。破壊と構築を繰り返し、今尚、止まることをしない。自らの意思を持った巨大な生き物のように、全てを飲み込んで膨張しながら、その形を変えてゆく街、トーキョー。我々は”ネオ東京”の時代の、まさしく真っ只中に生きて居るのだな。


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とは云え、今の世。不穏や殺伐、欺瞞が其処彼処に漂い、いつ晴れるとも知れない閉塞感に閉ざされた、実に若者たちが若者らしい夢を持つことのままならぬ時代である。そんな時代にあっては、未来と云う言葉もどこか白々しく、実感から遊離した不確かなものでしかないのかも知れず、生きること自体に明るさや望みを感じづらくなってきて居るのかも知れない。端から諦めたり放棄することが当たり前となってしまった時代。
でも。金田ら”健康優良不良少年”の如く、バカバカしいくらい生きることに貪欲で、健全な無鉄砲さ無軌道さと、何度でも起き上がる図太さタフさが在ったなら、たといどんな未来が来ようとも、鼻っ面を空に向けて、地面に両足踏ん張って迎え撃つことができる筈なんだよね。だって若者が元気じゃないと、世界は終わっちゃうんだから。

*1:いっそのこと、オリンピックの開会式は「ラッセーララッセーラー♪」で、セットの瓦礫の中からレーザーがピキーン!となって、空から赤マントの鉄雄が降って来て、聖火台に火が付くよ!って演出で良いんじゃないか?でもって、まさか…新国立競技場の下に大覚様は埋まって居ないよね…(;゚Д゚)

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