|着物| |本|
ざらりの質感と厚みのある表紙は、着物を想わせるつくり。
背筋を正して手にすると、頁をめくる度、綴られた言葉のひとつひとつより、
凛と律した所作や着姿、衣擦れの音がはっきりと浮かんでくる。
しゃりとした佇まいが心地良い。
着物を語る言葉の数々は、ときに厳しく、ときにゆるやか。
また、潔さを伴えば、執念とも呼べる欲を含めたりする。
幸田文と云えば縞のお召だけれど、私の箪笥にもやはり、
縞のお召ばかりがやけに目に付く。茄子紺や鉄色の地色に、
柿渋や海老色などの入った、ぱきっとした色味の。縦縞の。
着物を着始めたのは、二十代も後半に入ってからであったが、
その頃より、着物の好みは然程変わらぬよに思える。
尤も、祖母からは、あんたは若いんだから、もっと若々しい色柄の、
やわらかいのを選びなさいよ。などと、云われ云われしたもの。
確かに、たまに気が向いて、錦紗だとか銘仙だとかを選んでも、
どうしたって結局は渋め渋めに偏って、我ながらぱっと明るい
色目を選べぬものか、と呆れることも度々である。
はんなりと薄淡い色味のもの、体に吸い付くよなやわらかいものは、
どうにも自分の気性には合わぬ気がして、つい、程好くごわっとした
紬やお召の着心地、地味色の縞や格子に惹かれて手が伸びてしまう。
着物の面白いのは、たとい同じ着物であれ、
それを着る年齢によって、印象も佇まいも変わってくることか。
三十代には三十代の。五十代には五十代の。帯の塩梅だとか着方。
また、帯揚げなどの合わせる小物もその歳々に連れるから、
如何様にも着られて実に面白い。愉しい。
あんまりにも渋過ぎて、若い頃にはしっくりせぬよに感じられて、
つい尻込みすると云うことも、しばしば在るけれども、
焦らず少し待つことで、必ずしっくりくるよになるのだし、
男っぽい着物をわざわざ選んで着てみても、それはそれで、
ちゃんと女の情緒が伴うのだから、つくづく不思議なものだ。
考えれば考える程、色々と興味は尽きない。
十代は親が着せます。二十代は若いからだが着ます。三十代は才覚が着ます。四十代になると気性みたいなもので着て、土壇場のしのぎをつけることもできるのか、と思ったことでした。
すると私は既に 「才覚で着る」 域の只中な訳だ。
三十代は着物盛り、何をどう着ても似合うとは良く云う。
変に臆せず、益々試して、益々着たいものであるが、
或るお婆さんが文に云った言葉が、また良かった。
”きものも、一生かけて着てみなければ、わかったものじゃない。ひとが三十のときに似合うものを、自分は四十で着て落付いていたということもある。今日着て、今日似合わないからといって文句をいうようじゃ、料簡がちがう。”
成る程。つくづく深い。