双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

続・女の着物

|着物| |徒然|


さて。昨日(→)の続きである。
着物の醸す女の情緒*1は、昨今流行の過剰な露出至上主義とはまるで対極に在るもので、隠し重ねることでこそ生まれる、我が国ならではの美意識と云えまいか。
着物の所作の端々で仄かに覗く ”チラリズム” の効果については、幸田文も饒舌に述べて居る。それはときとして、首筋や踝と云ったところの肌そのものであったり、袖口から覗く襦袢の色であったり。また、夏の簾越しに見る、ものの美しさにも通じて居る。

すだれのかげにいると、誰でも実際よりは、ちっとばかりよく見える。紫と白の、くっきりとした透綾の矢絣を着たひとが、お扇子をつかっているのなどが透ければ、このひとこんなにきれいだったか、とおもう。透けておぼろになるから、かえってやさしさがでるのだろうか。透綾のやや張りのあるきものが、えりあしから衣紋、胸へと包む夏姿は、ひどく好ましくみえる。

どうだろう。肩だの腿だの胸元だのと、凶暴に露出するばかりの
無粋なえげつなさに、こう云うしっとりした情緒は皆無かと想う。
銀幕の中で柔肌をあらわにした若尾文子は、それで充分に
艶っぽいが、抜いた衣紋と襟足の塩梅だとか、袖口から覗く
白い手首だとか。着物を纏わせた佇まいは、柔肌のそれ以上に、
女の持つ色香や凄みを、むうと漂わせて居るよに感ぜられはしまいか。


そして、格子柄である。手持ちの着物の柄では、断然
縦の縞が圧倒的なのだけれど、格子柄が是に準ずる。
殆どは、祖母や知人より譲り受けたものと、骨董市などで
安価に買い求めたものだが、ほんの二つ。自分で工面して
誂えた木綿の普段着が在る。一つは、鉄色に黒の縦縞の
入った保多織の。もう一つは、紺地に細い緑で大柄の
格子の入った会津木綿。前者は兎も角、後者は何だか
奴さん、或いは 「半か丁か!」 と云うよなもので、
しかしながら、自分の性分に合って居るから好きで着る。
是を短めに着付けたのへ、朱色の博多など合わせ締めると、
素足に下駄を突っかけて、颯爽と歩きたいよな心持ちになる。
格子柄に非常な執着を抱いた文は、意外なことに、
初めて袖を通した二十歳の頃より、幾十年と過ぎて尚、
是だと云う格子には出遭えて居ないのだ、と述べる。
今でこそどうと云うのでも無いが、そもそも格子縞とは
粋なものなのであって、砕けた商売の人びとが好んで着る
ものと説く母から、厳しい口調でぴしゃり。
「そんな下司っぽいものをいい家庭の娘が着れば人格にかかわる」
とたしなめられ、その時はひっこむしかなかったと云う。
それから数年した後、念願の格子を買って貰うに至るのだが、
そこで父・露伴がこう云う。

たしかに格子を着てあだっぽい人もいる、下司ばって見える女もいる。なにも人により着てみた上のことによりだ、うちあがって見えるか落ちて見えるか。

以来、彼女の胸内には、格子柄への飽くなき執着が宿り続ける。
女の性と云うのか。こう云う、何物かに対して女が抱き続ける、
ふつふつとした想いと云うのは、情念と云うのじゃないけれど、
それにも似たものがちら覗く気がして、凄み混じりにも面白い。
それが歳を重ねて、ふっと身軽になった頃、執着から離れた所に
充分な余裕を持って、考えられるよになるのかも知れない。

秋のしぐれの袷なら、ごつごつした手織紬で濃茶に薄茶の田舎格子がいいだろうなどと思うのだ。


嗚呼。こう云うの、良いなぁ。

*1:殿方も然り。「上布を着た男ざかりや、白絣の青年もまたいい。」 ご尤もです。(特に白絣青年)

<