双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

曇天を走る

|散輪| |縷々|


鉛色の空はどこまでも曇天。風は冷たく、一旦は躊躇したものの、午後には日が射すと云うので、10時50分。グワイヒア号と共に出立し越境、海沿いの旧街道を経て22キロの道を行く。休憩無しの一時間と少々で馴染みの喫茶店へ到着。ピザトーストと珈琲の昼食に、もう一杯珈琲をおかわりして、ゆったり寛いだ後、再び寒空の下へと戻った。

本来であれば年配のお客さん方で賑わって居る筈の時間帯だのに、一体皆何処に居るのだろ。めずらしいくらいにひっそりとして居たな。前回来た時もそんな風だったし、自分の店とて同じよな状況であることを思えば、大方の見当は容易につこう。
新型某の置き土産。その巨大な爪で引っ掻き回された傷痕の、表向き以上の深刻さ。そこへ加えて、昨今の世を取り巻く情勢の不安定さ、危うさ。そうした陰りが、皆にとってのすぐ先の近い未来を、より一層不透明にして居るのだろう。どんなに目を凝らそうと、ちいとも先が見えやしないもの。

だからと云う訳じゃないけれど、せめて自転車に乗るときは愉しく、自由に在りたいと思う。自転車と云う乗り物を自力で動かして走り、行きたいところへ行って、見たい景色を眺めて、珈琲を飲む。途中、知らない道を走って袋小路で引き返したり、交通量の多い国道を緊張しながら走ったり、ふとした瞬間、思いがけず瑞々しい感情が湧き上がったりする。

何故、私は自転車に乗るのだろ。ここ数年の間に知らず知らず、呼吸の仕方を忘れてしまったよな気がして居て、重たい息苦しさの中で、生きて居る実感がゆっくりと鈍ってゆくのは耐え難かった。呼吸を取り戻し、身体感覚を取り戻し、自分自身の生身の体を動かし使って進むことで「生」をありありと実感する。日々の煩いの枷から精神を自由に解き放つ。

そうだ。自転車に乗って走ることは、即ち生きていると実感することなのだ。翌朝の筋肉や関節の痛みすら、実際に肉体を使ってこそ得ることができる感覚で、それはつまり生きて居る証に他ならないのだ。なあんてことを、ひとり帰りの道中にあつく思い、我ながら一寸照れくさくなって、そしてグワイヒア号が誇らしいよな心持ちになった。

この季節、針路をを北へとれば、大抵は向かい風の中を進むこととなる。耳元で風が轟々と鳴り、ウィンドブレーカーがバサバサと音を立てる。まぁ、ひとりで走るってことはそう云うもの、真っ向から直に風を受けるってこと。けれども本当はひとりじゃない。自転車と乗り手と。二人三脚の協同作業なのだよな。

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