双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

東京街景

|本| |雑記|


薄曇りから一転、春の嵐となった午後遅く。
珈琲を傍らに、今は無い東京の街を歩いて居る。

阿佐ヶ谷。人形町門前仲町。千住。日暮里。
この本の中の町の書かれたのが1980年代後半で、
文庫あとがきの書かれたのが、それから十年以上経った1998年頃。
ここに出てくる町の景色は、良く知って居る気もするし、
少しの変化の後と云う気もするし、けれども確かに知った匂いである。
そして私の記憶に在る東京は、1990年代から2000年代にかけて。
つまり、生活者として暮らした僅かの時期、若さの無鉄砲を味方に街を
方々駆け回って居た時期の、十数年程の間に凝縮されて居るよに思う。*1

時折ふと思い出す東京は、そんな二十年以上も前の東京であり、
当然、乗り換え駅の構内も、目印のビルも、抜け道に使った路地も、
今ではすっかり様変わりしてしまって居て、その殆どはもう無い。

スクラップ&ビルド。巨大都市・東京の宿命である。
「全体がかすんで、夢のように、覗き絵みたいにすばらしい」幻影の街景。

「ノスタルジー」という近代の独特の感情が東京の人間にはとりわけ強いのは、結局は、東京がどこよりも破壊と再生のサイクルが早いからだろう。

氏はあとがきで、常に変容を続ける東京から見覚えのある景色が消えてゆくたびに「親しい友人を失ったような寂しい気分」にとらわれる、と書いて居る。
そして、何百年も前の建物が幾らでも残る京都や奈良のよな古都には、歴史への思いは在っても、失われた”近過去”へのノスタルジー。つまり、”ついこのあいだのことが懐かしい”と云うよな思いは生まれにくいであろう、とも。


夕暮れ時の人の居ない河川敷で、見知らぬ街の路地裏や雑踏で。
その風景の中へ紛れて消えてしまいたいよな、
そんな心持ちにさせる街景は、東京が東京で無くならない限り。
何処かにひっそり、物云わず在り続けるのだろか、と思う。

*1:勿論、その後も幾度となく訪れては居るのだが、思い浮かぶのは何故だかいつも、この時代の東京である。

<