|本|
ひんやりとした温度と共に伝わってくる、遠い、広い静寂。
- 作者: 梨木香歩
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2012/09/01
- メディア: 単行本
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こういう光景を確かに自分はかつて観た。
数百年変わらないようなエストニアの地方の後継を目にするたび、幾度となくそいう感慨を得た。肉体は現在にあるが、人の精神は、現在にコミットしているのはほんの一部分で、ほんとうは各自、他社の窺い知ることのできない遠い時代と密接に結びつきながら生きているのだろう。
日常の意識とは別に魂の一部は見知らぬ原野を彷徨っていることを思う日々(今はコーカサスの、あの辺り、とか)。体と魂が離れることなく移動ができた大航海時代とは違う、急激な体の移動に魂のそれを合わすために、それは存在の必要から生まれた工夫だった。
たぶん一生、追いつきもせず到達もし得ず、ことばに表現し得ることなく、徒に歳月を費やし最後までただ「目指している」だけの、ほんとうは実体も分からない、そういうはるかな対象をもつこと― そういうことをずっと自分の抱え持つ不遇な病理のように感じていた。
やがて梨木氏は、エストニアを巡る九日間の旅の後で、この「自分の抱え持つ不遇な病理」が、実はある種の固体に特有の、自らの裡で、静かに燃やし続ける「熱」であり、その「熱」とは、煉獄の世の「光」なのではないか、と思い至る。
エストニア、未だ知らぬ土地。けれどもいつの日か。もしも、海岸線に広がる一面の葦原が、まるで目に見えない巨人の手で梳られるが如く強風にそよぐ様の、その不思議な明るさと静寂とをたたえた美しさを目にしたなら、きっと私も思うのだろう。
「こういう光景を確かに自分はかつて観た」