双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

秋の物想い、及び自己完結

|雑記|


午後の空き時間に外で花壇の手入れをして居たら、後ろから「あらまあ!一寸見ない間に随分とすっきりしたのねぇ」と声を掛けられ、スコップ片手に振り返ると、知人のMさんであった。「こんにちは。今度またバラを植えることにしたので、二年ぶりに庭仕事も再開です(笑)」「ホビちゃんって、いつも何かしてるのねぇ」「え、そうですか?」「そうよぅ。私が見るときは大体いつも何かしてるわよぅ。去年なんか、一人で頑張って物置小屋建ててたじゃない。他にも編み物とかお裁縫とか、本当にすることがよーく見付かって、感心するわぁ」
ううむ。そう云われてみると、確かにそうなのかも知れぬが、することをわざわざ探して見付ける訳では無く、目の前にすること、したいことが在るから、して居るだけなのだけれどもなぁ...。Mさんが帰った後、手にしたスコップを土に刺したまま、何とは無しにぼんやりと考える。
先ず、真ん中に”仕事”と”生活(自分のと猫らのと)”が軸として在って、その周りを、Mさんの言葉を借りれば”すること”が囲んで居るだけ、と構造は至ってシンプルだ。この”すること”と云うのが、つまり”好きなこと”なのであろうか。また同時に”私”と云う人間を形成するものでもあり、自らの意思と好奇心によって、体を動かすことや手を動かすこと、見聞きし、考え感じることが、全て仕事や生活に結びついて居て、其々切り離されたり独立したものじゃない。全部が同じところに在るのである。
しかし、はて。私はどうして是らを分けられないのだろ?仕事は仕事。生活は生活、趣味は趣味。こうした”切り替え”と云うものが無いのは、一般論としてあまり良しとはされぬ事柄で、その基準に照し合せれば、私は駄目な人と云うことになる(笑)。是は恐らく、仕事と私生活とがほぼ同化した、この一寸特殊な環境に因るところが大きいのではないかなぁ、と推測できるのだけれども、全て一緒くたになってこそ、私と云う人の形になって居るのだから、それで良いじゃないか(笑)。などと勝手に物想いに耽り勝手に自己完結した、そんな秋の午後。

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