双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

痺れる映画

|映画|


夕方、テレビをつけたら、吹き替え版の『セッション』がかかって居た。
何回観ても、痺れるなぁ。

序盤は気弱でやられっぱなしのアンドリュー君が、次第に矢吹ジョーと化して来る。しかし、鬼教官フレッチャーがおっちゃんだと思ったら大間違いで、いなり寿司を拵えてくれたり、甲斐甲斐しく世話を焼いたりは、全くしてくれないし(笑)*1、おっちゃんとジョーとの間には、歪な者同士の歪な信頼関係がちゃんと在るけれども、フレッチャー先生は只々底意地の悪い、実に陰湿なやり口の常軌を逸した地獄のしごきでもって、兎に角、アンドリュー君の肉体と精神を、是でもか是でもかと追い込んでゆくだけである。それは常人の理解の範疇を遥かに超越して居り、おっちゃんの大好きな”打たせて打つ”方法論とも近い気もするが、何れにせよ、人でなしの方法論に違いない(笑)。


恐らくは、かつてのフレッチャー自身が、偉大なるジャズマンになろうとして、結局それが叶わなかった人間であって、しかしながらそれ故に、偉大な天才ジャズマンを自らの手で、見出し育て上げることによって、彼自身も又、偉大な人間として名を残そうと、歪んだ執念を燃やして居るものと思われる。当然、そんな鬼教官に見込まれてしまった生徒は皆、真っ当な人間であったがため、尊厳を失ったり、人として壊れてしまう。つまり真人間には全く相容れぬ世界、価値観に生きて居る人物なのだ。だが生徒であるアンドリューも又、そんな世界に価値を見出してゆく訳で、一人の友人も作らず、青春も謳歌せず、お似合いの彼女(のりちゃん)も捨て、人並みの仕合せも一切合財捨てて、真っ当な人間の文法では無い、云うなれば”少年院流” ”あっち側”の文法でもって、己の生きる唯一の目的のために、自らの意思で、恐ろしく孤独で壮絶な、狂った修羅の道を血まみれで突き進んでゆくのだ。何て酔狂な(笑)。
そんな二人の修羅が、或る到達点へと至るクライマックスの十分間は、まさしく圧巻に尽きる。この二人の歪な共犯関係とでも云うのだろか。それが確かに成立したよに見えた瞬間が在って、それをアンドリューの父上が「嗚呼...。私の愛する息子は、遂に”あっち側”の人間となってしまったヨ...」って顔して、袖の奥のドアの隙間から見て居る様が、実に印象深い。怒涛のドラムソロへと突入してからは、観客もバンドメンバーも置いてけぼりで、完全にアンドリューとフレッチャー、二人だけの凄まじい狂気と狂気、魂と魂の戦いだ。しかも是が何だか、凄く愉しそうにも見え*2、そして演奏が終わったと同時に、余計な感傷も余韻も一切残さず、スパっと潔くぶった切れて、幕が下りるのである。
個人的にこの映画は音楽映画じゃない、と想う。題材は確かにジャズかも知れぬが、何と云えば良いかなぁ。梶原一騎だとか『アストロ球団』なんかの、ああ云う、熱量過剰な行き過ぎのスポ根漫画にも通ずるよなぁ、と。「真に偉大な天才として名を残すためなら命懸けるぜ」的な世界観は、気絶必至のクロスカウンター特訓とか、瀕死の無茶減量特訓とか。ドリルとか丸太とかバンアレンとか。ああ云う次元じゃなかろか(笑)。だから当然、真っ当な人間からすれば完全にどうかして居る、狂って居るとしか思えぬ訳で、のりちゃんやホセみたいに「ついていけない」し「恐ロシイ」のである。
でも。そんな世界だからこそ、観て居て痺れるのだけれども。

*1:でも、青山君は連れて来る(笑)。

*2:ジョーとカーロスの試合みたいよね。

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