双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

余白を頂戴

|徒然| |映画|


先頃発売の『暮しの手帖』に、最近の映画の予告編は、殆ど映画本編のダイジェスト版と化し、観る前から内容が過剰に説明されてしまって居る、と嘆くコラムを読んだ。今の若い人たちは”確実”に泣けるだとか感動できるだとかの”保証”が無ければ、本も買わず、映画も観ないので、配給会社の側も集客のため、そう云う実も蓋も無い予告編を拵えざるを得ないのだろうが、映画を観る人や作り手に対して、実に失礼ではないか、と。映画の予告編と云うのは、物語を凝縮した詩のようで在るべきで、イメージを膨らませる”余白”こそが肝なのだ、と。
確かにその通りだろう。私が映画館へ足を運ぶ機会は、昔と比べたら随分と減ってしまったけれども、それでもたまに映画館へ行けば、上映前に流される矢鱈と長い無粋な予告編に閉口し、折角の時間を台無しにさせられた心持ちとなる。
映画の予告編に限らず、是は今の世の中の、あらゆる事柄全般に共通する現象かと想う。兎に角、何でもかんでも過剰なくらいに”確実さ”や”説明”が求められるよになってしまった。自分の頭で”考える”こと、自分の頭で”判断”することが面倒がられ、どんどん省略されて居る気がして、ぞっとする。しかしそもそも、映画や本、音楽などと云うものは、受け手の想像のための”余白”を残してこそなのであって、その余白に想像力を掻き立てられたり、自らの足で探し、手で触れたりして確かめるものなのではなかろか。勿論、時にはハズレも在ろうが、そんなことは当たり前だし、ハズレを恐れて回避してばかり居ては、いつまで経ったって何も見付けられやしない。
合理性だの保証だのと、本来ならばそう云うところからは遠くに在る筈の、映画(や本や音楽)にまで”余白”が許されぬ風潮になってしまったとは。いやはや、何とも哀しいばかりであるよ。


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映画の予告編、斯く在るべし。格好良いねぇ。


ストレンジャー・ザン・パラダイス 日本版劇場用予告篇



Age of Assassins (1967) Trailer

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