双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

二つの私

|本|


私は彼女のことを、ずっとこう思って居た。
父方の祖父母に作家、両親に写真家、更には母方の叔父に編集者*1と云う、豪華過ぎる文化人一族の家の一人娘に生まれ、恐らくはそんな家柄から、出版やアート関係など、所謂”ギョーカイ”の人々の出入りが在ったろうし、幼い頃より「島尾家のまほちゃん」として、さぞやちやほやと誉めそやされて育つ中で、女子高生のお遊びの落書きが、当然そうした”ギョーカイ”の人に知れて、「まほちゃん、これ面白いよ!」なんつって、あれよあれよとデビューするに至ったのであろう、と。実際、肩書きは”マンガ家”となって居るみたいだけれど、この人が本職のマンガ家だと云う認識は薄いし、度々音楽誌やカルチャー誌に連載を見かけるにしても、文筆家と云う程のものでもない。ギョーカイ周辺に可愛がられて居る、文化人一家のお嬢さん。つまり世間が「まほちゃん」としてちやほやし、彼女自身も「島尾家のまほちゃん」云う職業に甘んじて居る風にしか思えず、そんな彼女を方々で見掛けるたびに、何だか鬱陶しいな、と離れたところから距離を置いて冷ややかに見て居た、のである。
しかし、本書を読み進むに連れ、彼女自身”まほちゃん”で在り続けることに、人知れぬ葛藤みたいなものを抱き続けて居たのじゃなかろか...そんな気がしきた。”まほちゃん”と”島尾真帆”との間の、世間の求める私と自分自身である私との間の、何かぎくしゃくとしたギャップみたいなもの。ここに綴られるのは、きっと”島尾真帆”が掬い取った日々の欠片を”しまおまほ”が言葉にしたものなのだ、と想う。夜のファミレスで交わす、旧知の友人たちとの他愛ない会話。そんな友人たちが、やがて社会人として、家庭人として地に足付いた人生を歩む一方で、いつまでもゆらゆらと定まらずに居るよに感じる自分。大人と云われる歳になっても、未だ大人になれて居ないよに感じる自分。人生が未だ遠く、只子供であることを自由気侭に謳歌すれば良かった子供時代。ここに在るのは、過去と現在を行きつ戻りつする、記憶や日々の欠片たちと、それらをときに感傷的に、ときに遠くから見つめる筆者の心だ。
”二つの私”の間で揺れる少女が、やがて歳を重ね、自分の中で自分が大人になったと認められたとき。私は「島尾家のまほちゃん」で良いのじゃないか、と吹っ切れたとき。彼女は”島尾真帆”であるのと同時に”まほちゃん”でもあるのだ、と云うことを、ようやっと受け入れたのかな、などと想う。

*1:かの『アラン』や『月光』『牧歌メロン』などを手掛けた南原四郎氏ですヨ...。すごい家系よね。

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