双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

雪の日の本

|本|


霧のむこうに住みたい

霧のむこうに住みたい

金曜日の雪の日。久しぶりに須賀さんの本を手に取った。単行本に収録されなかった、短くて小さなエッセイだけを集めた一冊は、いつもみたいに、背筋をぴんと伸ばして心を澄まして向かうお話とは、ちょっと違う。須賀さんを訪ねて行って、卓上にちょっと頬杖なんかついたり、椅子の背もたれに寄りかかったりしながら、寛いだ中で聞くお話と云うのだろか。「あ、そうそう。チーズと云えばこんな話があるの...」だとか「アスパラガスで思い出すのはねぇ...」だとか云う風に、須賀さんの取り留めの無い記憶の中の小さな欠片を、気取らぬ手料理(リッカ家から受継いだ田舎風の煮込み料理かしら)を頂きながら、お茶を飲みながら、あったかなストーヴの前で聞いて居るみたいな気がして、嗚呼。今の私には、丁度こんな話し相手が必要だったのだな。そんな想いが、静かに、じんわりと満ちた。
『思い出せなかった話』『フレンツェ 急がないで、歩く、街』など。時折、少女のよな無邪気さを滲ませ、小鳥のよに息を弾ませつつ、意思を持った深い眼差しが、ふと覗く。けれど、私たちは知って居る。須賀さんが”夫”と云ったとき。つつましくも仕合せであった、かけがえの無い数年間の、その後ろには、避けられなかったよな運命や、痛み、暗渠のよな哀しみとが、沈黙と共に横たわって居ることを。彼女の膨大な記憶が文字に紡がれるまでには、長い時間が必要だったことを。
収録の『となり町の山車のように』の文中で、須賀さん自身が幾度も噛み締める言葉と出会うことができる。幼かった言葉はあたためられ続け、長いときを経て形となってゆくのだけれど、須賀さんのささやかな秘密を、寛いだ雰囲気の中で思いがけず聞くことができたみたいな、そんな気がして嬉しい。

六月の終わりというのに、アルプスを越える列車の客室にはうっすらと暖房が入っていた。窓のそとはただ暗いだけで、平野を走っているのか丘陵地なのかさえも見当がつかないまま、一本、また一本とうしろに飛んで行く電柱だけが、この世で自分の位置をはかるたったひとつの手がかりのように思えた。そのときもういちど、あの遠いころの列車の夜の記憶がもどった。
《夜、駅ごとに待っている「時間」の断片を、夜行列車はたんねんに拾い集めてはそれらをひとつにつなぎあわせる》
          (中略)
「時間」、とあのころ言葉を深く考えることもなしに呼んでいたものが「記憶」と変換可能かもしれないとまでは、まだ考えついていなかった。思考、あるいは五官が感じていることを、「線路に沿って」ひとまとめの文章につくりあげるまでには、地道な手習いが必要なことも、暗闇をいくつも通りぬけ、記憶の原石を絶望的なほどくりかえし磨きあげることで、燦々と光を放つものに仕立てあげなければならないことも、まだわからないで、わたしはあせってばかりいた。
          (中略)
《「時間」が駅で待っていて、夜行列車はそれを集めてひとつにつなげるために、駅から駅へ旅をつづけている》
もともと、ひとつのまずしいイメージから滲み出たにすぎない言葉の束なのに、それは、たとえば成人のまなざしをそなえて生まれてきた赤ん坊のように、ごく最初からしっかりとした実在をもってわたしのところにやって来たものだから、わたしはマヌケなメンドリのように両手でその言葉の束だけを大切に不器用に抱えて、あたためながら歩きつづけた。


                   −『となり町の山車のように』より−


掌の中のカップから湯気がすっかり薄らいで、はっと我に返ると、私はもう須賀さんの部屋に居なかった。

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