双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

達者でな

|猫随想|


今日、剣菱をリリースした。あたたかな日中だった。丸四日をケージの中に過ごした剣菱は、ちいとも暴れず、おとなしいものだった。幾ら養生のためとは云え、狭いところへ閉じ込められて、快適であった筈などなかろうけれど、ご飯をしっかり食べ、大も小もしっかり出し、そして兎に角よく眠った。それも今日でお終い。表へ向かってケージの扉を開け放ち、さあ、外へ戻りな。と云うと、剣菱は少し迷った風に前足を出しては引っ込め、暫くケージの中に留まって、ゆっくり時間をかけて表へ出た。そうして、見慣れた砂利道の真ん中で少し緊張した顔をした後、ひとつひとつ確かめるよにして隣家の塀の上を歩き、幾度かこちらを振り返りながら、やがて何処かへ姿を消した。どうか達者でな...。


本当なら里親を探してやりたかったけれど。もっとしっかり静養させてやりたかったけれど。我々人間たちの事情が諸々在って、何れも叶わなかった。私にとっての今出来る精一杯が、このリリースだった。日曜の晩、母とAちゃんから厳しく諭された。気持ちだけではどうにもならないことが在る。もう十五・六の小娘じゃないのだから。母にしろAちゃんにしろ、この小さな野良に情が移らぬ訳が無い。再び外へ戻すのは誰だって辛いのだ。私の身を案じるが故の厳しい言葉の数々を、その晩、布団の中で反芻して居た。朝起きると、揺らいで居た心は固まって居た。できることしかできないのだから、今の己にできることをすれば良い。
リリースの後で、養生に使った道具類を洗って片付ける間も、明日からの冷え込みが気掛かりだった。裏口横の物置き場の目立たぬ所へ、発泡スチロールで拵えた寝箱を置いておこう。きっと暫くの間は戻って来ないだろうし、或いは、もう戻って来ることは無いかも知れぬけれど。塀の上から草むらへ消えて行った、小さな後姿が幾度も蘇った。やがて日は暮れ、すっかり暗くなると風が冷たくなってきた。剣菱は今頃、何処でどうして居るのだろか。とうとう最後まで確かめることができなかったけれど、傷の具合は大丈夫だろか。何も居る筈の無い隣家の塀を、気付けば眺めて居た。六時を半時程過ぎた頃。ちら、と何か小さなものの動くのが見えた気がして、一度は気のせいだと思いつつも表へ出てみた。すると、其処に居たのは、実に剣菱なのだった。お前、ちゃんとご飯食べに来たの?私は慌てて餌を取りに戻り、山盛りにした器を裏口横の奥の方へ置いた。しっかりゆっくり食べな。食べ終えた剣菱は、隣家の塀の上へジャンプし、毛繕いなどした後、再び草むらの中へ消えた。何処か他所に寒さの凌げるよな隠れ処を持って居るのだろか。そうでなければ、寝箱を使ってくれると良いけれど。
リリースして、やがて剣菱の体が元気になって、それで一件落着、なのでは無い。最も大きな山は越えただろうけれど、一区切りついただけのことで、また新たな章が始まってゆくのだ。一度持ってしまった繋がりは、何かの起きるまで切れることなく続いてゆくのだ。再び辛い想いをすることが在るやも知れぬし、もしかすると、意外な展開が待ち受けて居るやも知れぬ。或る日突然に終わってしまうかも知れぬ。それは誰にも分からない。剣菱と関わったことで、ひとつ。消えることの無い、見えない傷が胸に残った。それは責任にも似て居る気がするが、このちくりとした痛みが何で在るのか。実のところ自分でもよく分からない。
私がTNRをすることは、恐らく、もう無いだろ。だから、剣菱が最初で最後と想う。強靭な精神力と信念、客観視できる目が無ければ、とてもじゃないが是を成し遂げること、続けることなど出来やしない、と思い知らされた。私は対象に思い入れてしまう部類の人間で、何処かではっきりと線引きができない。ずるずると感情に引き摺られてしまう。そんな甘ちゃんの私には、つくづく向かないな。

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