双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

剣菱保護記

|猫随想|


一昨日、水曜の夕刻。ようやっと剣菱を無事保護することが出来た。本当に長い辛い日々だった。しかしまぁ、たった一匹の雌猫のことでこんなに苦労するとは、まったく思いもよらなんだ。否、私が自分で勝手に思い詰めてしまっただけのことなのであって、当の剣菱には何らの咎も無かろうよ。しかし、どうしてあの日、剣菱はあんなにあっけなく捕獲器にかかったのだろか。
ストッパーの僅かな調整ミスが原因で失敗したが、剣菱は既に二度も捕らわれかかって居り、以来、どんなに空腹であろうと、捕獲器の入り口から中には決して入ろうとはせず、否応無しに長期戦を覚悟させられ、もしかするともう駄目なのかも知れぬなぁ、と諦めが色濃くなってきた、そんな矢先のことであった。


僅かなドライフード*1を平らげた後、いつまでも捕獲器の奥の”焼きかつお”を、入り口の外から只、じいと覗くばかりの剣菱を見て、また今日も空振りだな、と私は窓辺を離れ、珈琲を飲みながらカステラをかじって居た。それから十分かそこいらが経った頃だったろか。何の気無しにひょいと軒下を確認すると、剣菱の姿は既に無く、捕獲器の扉が下りて閉まって居た。どのみち食い意地の張った例の茶トラ*2であろうな...と中を覗けば、実に。其処に居たのは剣菱なのであった。中に敷いた新聞紙が少し破れては居たが、パニックを起こして暴れるでもなく、騒ぐでもなく。剣菱は只、中に居た。獣医師からも保護団体の方からも「大抵はものすごく暴れるので、びっくりしないように」と聞いたので、段ボールで覆われた暗がりの中で存外落ち着いたその様子は、ちょっと意外だった。
そのまま裏口の三和土に運び入れ、大きな布を掛けて一晩。翌朝、捕獲器ごと赤ひげ先生の所へ連れて行った。移動中もお医者でも、剣菱は静かだった。手術の他にウィルス検査なども一緒にお願いした。夕刻、予定通りに受け取りに行くと、先生が「小さい子だったよ、2.8kg。未だ一歳にはならないね。恐らく半年以上八ヶ月未満と云うところじゃないかな」 幸いお腹に未だ子は居らず、ウィルス検査も陰性。リリース後のことを考えて五種ワクチンをサービスして下さった。手術代金も随分値引いて頂いたのに。嗚呼、有難い。厚くお礼を述べてお医者を後にした。裏口の三和土に養生のためケージを整えておいたので、麻酔から醒め切らぬ剣菱をここへ移し、布を下ろしてそっとしてやる。意識は戻っても未だぼんやりとして居るので、初めて剣菱の体に触れ、毛並みを撫でることが出来た。今日は怖い想いさせて御免な。でも、もう大丈夫。ここは安全な場所だよ。ゆっくりお休み。水とほんの少しの餌を置いて仕事へ戻り、店を仕舞った後で覗きに来ると、剣菱は箱の中で丸まって、ぐっすり眠って居た。その晩は、私もぐっすり休んだ。


一夜明けた本日。麻酔の影響であろう、剣菱は食べた餌を少し吐き戻して居り、敷いてあったペットシーツを取り替えようと、ケージの中へ手を入れるや、お馴染みの「シャー」を見舞われる。尤も、シャーを云うくらいの元気が在るなら、一安心か。その後も水を替えればシャー。餌を入れればシャー。時折パンチも見舞われたが、お医者で爪を切って貰ったので、深手を負わずに済んだ。人に撫でられることを知らぬ猫は、人の手がおっかないのだ。撫でられることが気持ち良いとは知らぬのだ。哀しいけれど、仕方が無い。午後遅くになって食欲が戻ってきたのか、皿の半分程の餌を食べた様子。
夜、保護団体の会長さんが保護活動の帰りに、捕獲器の回収を兼ねて様子を見にわざわざ立ち寄って下さった。「本当に良かったですね。私もホッとしました」捕獲時のことを話すと「何度も失敗した猫でも、こちらがフッと気を抜いたときに、不思議とかかったりする。もしかしたら、ホビ野さんの気持ちが通じたのかしらね」 とてもとても穏やかでやさしい、素敵な女性。今回の件では精神的にも本当に助けて頂いて、心から感謝して居る。又、養生中の剣菱の様子を見た会長さんは、ちょっと拍子抜けした風に「あらら、ちゃんと箱のベッドの中に入って大人しくしてますねぇ。野良ちゃんの場合、暴れてお皿がひっくり返ったり、シーツがビリビリになったり、ケージの中が滅茶苦茶になることが多いんです。この子、確かに警戒心は強いかも知れないけれど、賢いし、こんなに落ち着いて居るなんて、このまま面倒を見てあげれば人馴れするのじゃないかしら」と仰り、勿論、ホビ野さんがこれ以上無理をする必要はないですからね、と付け加えた。ここへ長いこと置いておけない諸々の事情は、会長さんもご存知なのだ。暫く色々とお話をして会長さんを見送った後、本来なら一件落着ですっきりする筈だのに、私はリリースと里親探しとの狭間で再び揺れて居た。
正解なんて、きっと無い。只無理はせず、自分のキャパシティを越えぬ範囲で、自分にできることだけをする。理屈ではそう分かって居るのに、感情の問題となると別なのだろね。そりゃ誰だって、助けた猫には仕合せな生涯を送って欲しいから。心残りは、何事にもつきものなのかも知れない。

*1:この寒さの中での絶食は体に毒なので、いつもの三分の一程度のドライフードは与え続けた。

*2:是までに通りすがりの野良男子どもが四回もかかったのだが、その内の二回はこの茶トラなのであった(苦笑)。

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