双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

サッカーの在り処

|蹴球| |徒然|


本日付の読売新聞は解説面に、文化人類学者の今福龍太氏が『ブラジル神話ここから』と題し、ドイツの優勝で幕を閉じたW杯への感想を寄せて居た。主にラテンアメリカ文化人類学を専門とする氏が、長年に渡ってブラジルサッカーに熱狂してきた所以は「偶然性・即興性をサッカーの本質として尊重」又「勝敗原理をどこかで相対化し、瞬間瞬間のプレーの美しさ」にかけ「戦術を引き受けつつ、好機を見てそこから逸脱する」ところにあるのだと語り、学者として、一蹴球愛好家としての目から見た考察は、同じく掲載された蹴球を生業とする人の寄稿よりも、私にはずっと興味深かった。以下は、本文よりの抜粋である。

ドイツは勝つために、偶然性をできるだけ抑え込み、合理的なサッカーを追求してきた。ブラジルの「偶然性の原理」とドイツの「合理性の原理」は長く対立してきた。残念ながら、その決着は今回のW杯では理詰めの方に大きく傾いたようだ。
「合理性の原理」は勝利を至上目的とする。それが突出し始めたのは1990年代初めからだ。欧州サッカー連盟が「欧州チャンピオンズリーグ」を世界基準のサッカーとして大々的に売り出した。サッカーは巨大ビジネスとなり、欧州の主要チームは巨額を投じて優秀な選手を買いあさり始めた。勝利という結果が求められ、選手は戦術に縛られるようになった。
テクノロジーは戦術の進化を生み出した。今や選手のスパイクにICチップを埋め込み、走行距離や最高速度、パス出し・パス受けの本数等をデータ化する。ドイツはこうしたテクノロジーを最も活用し、試合中の戦術に生かしている。
未来のサッカーを悲観的に展望すれば、選手はますますサイボーグ化するだろう。選手の動きはコンピュータープログラムで統御され、指示が瞬時に伝達される。より有能なプログラムを持っている方が勝つ。偶然性に満ちた生身のサッカーは消えるだろう。

氏は、ブラジルの民衆にとってのサッカーは”生の根源”、つまり生きるためのエネルギーであり、世に云う”マラカナンの悲劇”こそが、ブラジルサッカーが再興へと向かい、蹴球王国の地位を築く”起源神話”となったのだ、と述べる。ペレの登場。五回のW杯優勝。そして、サッカーに支えられた人々の人間としての誇り。

ブラジルは20世紀以降、欧州の合理主義への依存から脱し、自立の思想を作り上げてきた。西洋とは別の生き方を探り、未来の人間の別の可能性を示してきた。グローバル化に対しては、それに代わる動きを作ろうとしている。

だからこそ、今大会の苦い敗北によってブラジルが誇りを失い、ドイツの示すよな価値観に照準を合わせるよなことにはならぬと信じるし、新たなブラジルを独自に現す、新たな”起源神話”として欲しい。氏は最後をそう結んだ。



現代サッカーでは、或る種の外連味や胡散臭さも含めた混沌が敬遠され、ファンタジスタの一閃のひらめきが放つ輝きも消えて久しい。ときには判定さえもテクノロジーに委ねられる。面白いサッカー・美しいサッカーが、勝てるサッカー・強いサッカーとはならないのが、哀しいかな現実であり、今大会優勝国であるドイツの見せた、あの合理的でシステマチックなサッカーこそが、現代の世界基準であろうことは、好き嫌いは別として、誰の目にも明白である。又、ブンデスリーガは、赤字経営に頭を抱える他の欧州諸国リーグの手本と云われて居るよに、自国の若手選手の育成やクラブ運営の在り方など、確かに見習うべき点は多く、近年のCLにおけるドイツ勢の快進撃にも、その正しさは見て取れる。蹴球が完全にビジネスと化した現代、クラブチームの経営も又、ビジネスとなった。勝たねば金にならず、勝つ者は益々豊かさを手にする。勝利が金を生む。つまり豊かさと勝利とがイコールで繋がったことで、勝つためのサッカーこそが求められるサッカーの在り方、金を生むサッカーがクラブの指針となる訳である。
審判の買収や賭博絡みの醜聞、スタジアムでの喧嘩沙汰なんてのは、かつての蹴球界にはつきものであったよに想うが*1、それが現代の蹴球界において忌み嫌われることは、よく分かる。つまり、スポンサー企業は当然のこと、試合の放送権やそれに付随する莫大な収益*2。ビジネスにおけるイメエジは大変重要であるから、現代のサッカーはよりクリーンなものでなくてはいけない。クリーンでなければ金にならないのだ。スタジアムに熱が在るとするなら、それは恐らく、ビジネスによって整えられた、何処か行儀の良い熱なのだろか。
又、今福氏は選手たちの”サイボーグ化”について述べたが、是は勿論”超人”を意味するのでは無い。人間がより機械的に、よりシステマチックになってゆくと云うこと。肉体的な強靭さは云わずもがな、戦術に従順で正確な役割を確実にこなせる選手が、更に求められるよになってゆくと云うことである。偶然性や即興性、突出したスーパースターは要らない。そう云えば以前にNHKで観た、ネイマールの驚異の身体能力に迫るドキュメンタリ番組、と云うのが実に面白かった。最新鋭のコンピューター分析によって判明した彼の体とその能力は、まさに”超人”としか云い様の無いものだった。常人であれば先ず不可能であろう動き、速さ。肉体も特別なら天賦の天才は、その脳の働きについても特別なのだ。蹴球選手としては華奢で小柄な体格のハンデから、当然それ相当の努力も在ったろうけれど、生まれついての特別な能力と肉体を天から与えられた、稀有の人である。サイボーグには向かないに違い無い。
そうした抗えぬ諸々の流れの中で、欧州の蹴球を日頃観て居て、たまに南米の蹴球を観る機会が在ると、だから余計にはっとさせられる。世界基準を迎合し、サッカーのグローバル化は進んでゆくけれど、其々のサッカーは、其々の”らしさ”を手放すべきではないのじゃないか。混沌とエネルギーに満ちた、観客の生の熱狂。そんなとき、嗚呼。この人たちのサッカーは、未だこの人たちの手の中に在るのだなぁ、と想うのだ。


私は来季もサッカーを観る。世界中の色んな国に居る私と同じよな人たちも、やっぱり観るだろう。リーグがつまらなくなって久しい。チームがつまらなくなって久しい。そう云う苦い想いを抱きながら、それでも我々が蹴球を観続ける理由は、恐らくサッカーが未だ我々の手の中に在る、と信じたいからなのかも知れない。

*1:イタリアでは、つい最近まで当たり前だったけど...。

*2:皮肉なことに、この極東の一国に居ながらにして世界のサッカーが観られるのも、こうした恩恵に預かって居るからに他ならない訳で。

<