双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

ひとりぼっちのあいつ

|猫随想|


私が過去、共に暮らした猫たち。*1アーロンを筆頭にタロー、ふうについては、ここに幾度か触れたことが在るけれど、実はもう一匹。長い間、その記憶に触れることを躊躇って居た猫が在る。名をノーマンと云う。
体の大きな雉の雄猫ノーマンは、私が東京に暮らして居た時期に出遭った猫で、三歳に届かずこの世を去ってしまった。同居人であった従妹と下北沢を歩いて居たとき、路地の電信柱へ”猫を貰って下さい”との張り紙を偶然見掛けたのが、そもそものきっかけだった。連絡先の紙札を切り取って帰り、それから数日間二人で思案した結果、貰い受けることに決めて、飼い主へ連絡をしたところ、彼が最後に残った一匹であると聞いて、是も何かの縁であろうと嬉しく想った。幸い、高円寺の古アパートは大家さんが埼玉県住まいであったため、猫を飼っても知られずに済む。又、お隣の子供の無い年配夫婦もノーマンをかわいがってくれたし、近所に野良猫の姿はあまり見られなかった所為で、外へ出ても喧嘩や争いに巻き込まれることも無く、仲良しの猫が居た風だが、同じく首輪をして居たので何処かの飼い猫だったろう。あいつは人懐こく穏やかな性質で、近所の塀の上で日向ぼっこしては、しばしば小学生にパンなど貰ったりして居たのを、幾度か見掛けたことも在ったものだ。


翌年の夏。我々が三ヶ月程旅で家を空けることとなり、その間ノーマンは東京を離れて、実家から駅で四つ離れたH叔母の家へ預けられた。叔母の家へ連れて行った翌日、其処からすぐの所に在る病院で去勢手術を受けたと記憶して居るのだが、生後どのくらいだったろか。一年にはなって居なかったと思う。やがて帰国して間も無しに、今度は家の事情で東京を引き上げる運びとなったため、再びノーマンの処遇について考える必要が生じた。落ち着くまでの暫くは、叔母宅で引き続き預かってくれると云うので、ノーマンの様子を覗いがてら叔母を訪ねると、久しぶりに会ったノーマンは廊下の奥に引っ込んだままで、やけにおどおどした、臆病な猫へ変わってしまって居たのだった。叔母の話では、近所に意地の悪い野良猫が居り、図々しく庭にまで入って来て威嚇するのだと云う。又、いきなり見知らぬ人ばかりの暮らす見知らぬ場所へ、たったひとりで連れて来られて、数ヶ月もの間、私に放っておかれたと云う気持ちもあったのだろ。すっかり人間不信となってしまった風だった。
それから程無くして、以前から話の出て居た叔母夫婦の正式な離婚が決まり、叔母も祖母の家へ出戻って来ることとなったため、ノーマンは私の所へ引っ越すこととなり、しかしながら、実家には先住猫のふう、及び祖父母宅のチャムらが居り、一先ず彼らとの兼ね合いを探る必要が在った。愚かな私は根拠も無く楽観して居たのだが、子猫なら兎も角、やはり大人の新入り猫が彼らに受け入れられることは難しく、結局ノーマンは、実家からすぐの従妹宅の方へ引き取られる運びとなった。短い間に何箇所もの家々を転々とし、その度毎に人間の顔ぶれが変わり、慌しい身の上の変化に、ノーマンは益々臆病な猫となっていった。以来、私にも従妹にも何処か他所他所しくなって、高円寺に居た頃のよな朗らかさは、すっかり消えてしまったよ気がする。
それから一年以上の過ぎた或る日。ここ数日ノーマンの具合が悪いみたい、と従妹より連絡を受け、病院へ連れて行って診せたところ、猫エイズを発症して居ることが分かった。お医者によると、恐らくは元々母猫からの感染で潜伏して居たものが、ストレスが引き金となって発症したのではないか、とのことであった。私はしたたかに頭を殴られたよな気がした。嗚呼、何の因果で。この若さで。人間の都合勝手が災いしたのだと想うと、胸が遣る瀬無さで締め付けられ、言葉にならなかった。発症から数ヶ月後、あいつは従妹宅の玄関で眠るよにして旅立った。家の者が帰って来るのを待って居たのだろ。最後を抱かれて看取られ、苦しまずに穏やかに逝ったことが、せめてもの救いであった気がする。
あれから十五年近くが経つけれど、私は今でもあいつのことを想う度、胸がぎゅうと苦しくなる。気の毒ばかりをかけてしまったが、勿論、我々には仕合せで穏やかな日々だって在ったし、愉しいことだって沢山在った。あいつの亡き後に出遭った猫たちには、二度とあんな思いはさせまいと心へ刻み、そうすることであいつへの弔いとなれば良い、と年日を経るに連れそんな風に想えるよになった。けれども胸の奥に棲みついた悔いは、ずっと消えずに、時折ちくりと痛むのだ。

*1:他にもミーコ、くろ、チャムなどの個性的な面々が出入りして居たのだけれども、彼らの所属は同じ敷地内の祖父母宅に在ったので、ここでは除く。

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