双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

ゆきて帰りし月曜日

|雑記|


午後早いうちに、この年最後の散髪をすませてさっぱりした後、ホビンズ君は小一時間電車に揺られて『ホビット 思いがけない冒険』を観に行くことにしました。出かけるにはあまり良いとは言えない、寒いような寒くないような、雨雲のどんよりと広がるやっかいな天気でしたが、この機会をのがすと、おそらく年内には無理でしたし、どうしてもすてきな気晴らしが必要だったのです。八方ふさがりという言葉がありますけれど、何しろ近頃のホビボときたら、実にどこを向いてもまったく身動きがとれずに、すっかりくさっていたのでした。このあわれな小さい人が、ささやかな気晴らしさえままならないことは、みなさんもよくご存知のことでしょう。



そうしてやがて目的の駅についたわけですが、改札口を出たところでホビボは急に可笑しくなりました。どういうことかと言いますと、目の前の大きなガラスに映りこんだ自分の姿、つまりコール天地の吊りズボンに別珍地のジャケットという格好が、ふいに目に入り、それがほとんどホビットみたいだったからです。しかしこんな日には、ちょうどお誂え向きと言えばお誂え向きかもしれません。
上映時間まではまだ二時間ほどありましたので、その間に新しい靴下を買い、エスカレーターで上へ行ったり下へ行ったり、抽選くじをひいたり(二回ともハズレのティッシュでしたが)して時間をつぶし、そうすると今度は小腹がすいてきたので、外へ出てサンドウィッチとデニッシュを食べ、珈琲を飲んでひと休みしました。ところが座った場所から見える黒板に「お持ち帰りでも食べれる○○」と書かれていたものですから、ホビボにはそれが気になって仕方がありません。「これがいわゆる"ら"抜き言葉というやつか。いったいこの中の誰が書いたのだろう。」残った珈琲を飲みほし、そろそろ時間だな、と席を立って、お盆をどこへもどそうかきょろきょろしておりますと、リック・モラニスによく似た店員がさっとやってきて、それを受け取りました。店を出たホビボは「それにしてもよく似ていたなあ!」と誰にきかせるわけでもなく、小さなひとりごとをつぶやきながら、一路映画館へ向かったのです。
何事においてもそうですが、特にすてきな気晴らしには万全をきさなくてはなりません。抜かりのないホビンズ君は、駅に着いてすぐ映画の切符を買いもとめてありましたから、そのまままっすぐ入場口へ行き、切符を切ってもらって中へ入りました。席はいちばん後ろから二列目の、ちょうど真ん中の辺りで、まったく申し分のない席です。やがて緞帳が両脇へひかれて、館内がだんだん暗くなりました。いよいよ始まりです。ところがどうでしょう。封切り間もなしの新作映画だというのに、お客は眼鏡をかけた妙齢のオフィスレディと、田舎くさい若い男女の二人連れ、そこへホビボをふくめてもたったの四人きりです。しかしながら、四人の人間が方々に散らばっておりましたので、これだけ広々と気兼ねせずに鑑賞できるのは、かえって都合が良いとも思われるのでした。(肝心の映画のお話は、後ほどホビンズ君自身がこちらへ書くことでしょう。)
さて。ここからは帰りのお話です。それは月明かりもたよりない、冷たい暗闇の山道に家路を急いでいたときでした。何の考えもなく、いつもの習慣で近道を選んでしまったものの、こんなおそい時間にこんなさびしい暗い道を行くのは、あまり賢明なこととは言えませんでした。「うっかり調子にのって、ついこちらへ来てしまったが、まったくばかなことをしてしまったものだ。それにしてもいやな感じだなあ。」たったひとつきりの街灯はちかちかと点滅し、今にも消えかかっていました。ふつふつと不安がわき起こり、こんなおっかない道は早いところ終わらして、さっさと大きな街道へ出よう、とさらに歩みを急ぎ始めた矢先です。ホビボはたしかに道の曲がった木立の暗がりに、何やら二つの気味の悪い目がふたつ、鈍く光を放っているのを見ました。すわ、狼か。さもなくば別の悪しき獣か。いえいえ。よく目をこらしてみますと、それは誰か心ない人が捨てていったのでしょう。四角いがらくたの扉にくっついた、蛍光塗料入りのシールだったのでした。しかしそれですっかり安心はできません。何しろこんな道です。用心にこしたことはありませんし、明るい街道までは、まだ道が残っていたからです。そこで映画を観終えて間もないホビボは、さしづめ勇敢なホビットにでもなった気分でみずからをふるい立たせると、まるでどうとも思っていないふうな顔つきで、ただまっすぐ道の先を見すえながら、やけに力の入った大股で歩いてゆきました。それは言ってみれば、高倉健仁侠映画を観た男たちが、そろいもそろって肩で風切りながら劇場を出てくるようなものですから、じつに滑稽なことだったのですが、まったく幸いなことに、何事も起こることのないまま大きな街道へ出たホビボは、そうして無事家路についたのでした。(瀬田訳調)

<