双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

『暮しの手帖』のアランセーター 二号

|手仕事|


暮しの手帖』2008年12月号のアランセーター、再び。である。


第一号は父に貰われていったので()、この度は満を持しての自分用。昨年末から、暇を見て少しずつ編み進めて居たのだけれど、途中で叔母からカーディガンの依頼が入ったため、一時中断。一先ずはそちらを編み終えて無事引き渡し、暫し休んだ後、再び取り掛かった次第。糸は濃い茶寄りの深みの在るメランジ調モスグリン、とでも云えば良いだろか。色調や質感はシェトランドのものに似て居り、合太寄りの随分と細身な並太糸。こいつを6号針で詰め気味に編んだので、父版よりも一回り小さめに仕上がったが、それでも十分にたっぷりである。
無骨で雄雄しい正統アランセーター。編み終えて袖を通せば、気分はマーフィーさんか、はたまたオコネルさんか。ふむ。我ながら”大変良くできました”と云うので、ちょいと格好つけて、鳥打帽とシング先生の『アラン島』なんぞ添えてみる。


さて。アランセーターについて少し。アランセーターの起源は、英国ガーンジー島の漁師らが仕事着として身に着けた、ガーンジーセーターが基になったと云われて居る。つまり、フィッシャーマンズセーターの一種で、編み込まれる模様には其々、安全や健康、大漁などの意味が在り、編み手の女たちは、それを着る家族への願いをひと針ひと針に込めたのだ。又、我々がアランセーターと聞くと、即座に生成り色を思い浮かべるけれども、そもそも生成りのセーターは、未成年の男子が正餐式や堅信礼に着用する晴れ着であり、一方、大人の男たちは藍で染められた濃紺のセーターを着て居たと云うので、現在店頭で売られる生成りのセーターの多くは、主に観光客に向けたものなのだとか。
そして意外なことだが、アランセーターが世に知られるよになったのは、二十世紀に入ってから。元々土地の痩せたアランの島々に産業は皆無であったため、1950年代、パドレイク・オショコン氏によって、貴重な収入を得る殆ど唯一の産業として確立されたのが、現在我々が良く知る、生成りのセーターの量産であった。又、興味深いのは俗に云うところの、所謂”伝説”の類。つまり、千年もの歴史云々、水難事故の際に家紋代わりとなった云々等の話は、オショコン氏の創作で、戦略の一端だったのでは?との説も在る。其処へ恐らくは、それまであまり知られることのなかったケルトの文化・風習、シングの著した戯曲の内容等も相まって、一人歩きしていったのではないか?と推測され、しかしながらその真偽については、実のところ未だによく分からぬらしいのだけれども、どうせなら”伝説”を信じる方が素敵じゃないか、と想う。以上、手短豆知識でした。



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展開図。



構造的には至ってシンプル。直線的な凹凸のついた身頃二枚と袖二枚を、図のよに合わせて組み立てるのだ。(襟は真ん中の□部分から目を拾い、輪にして編んでゆく。)細長い帯状になった袖の一部が、そのまま肩へと繋がる”サドル・ショルダー”と呼ばれる仕立ては、伝統的なアランセーターで良く見られる方法。






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袖から肩周り。

こちらがその”サドル・ショルダー”。袖の中央に配したパターンが肩の上まで続いて居るの、お分かりになるだろか。見た目の美しさに加えて、袖と身頃を直線的に繋いだ独特の仕立ては、着心地もゆったり。肩周りの動きが実に快適である。



ゴム編み。



裾、袖、襟のゴム編み部分は変わりゴム編みで。表編み三目、裏編み二目、二目の交差の組み合わせなのだが、交差が入ることで一寸凝った風に見えるから、面白い。







模様。




身頃の中心、複雑な交差によって作られる模様は、何処と無くケルト的。他には杯やケーブル、鹿の子などが入る。









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泥炭のよな、苔むした岩肌のよな。深みの在る土の匂いの色。

一見すると濃い茶がかったモスグリンなのだが、近寄ってじいと見てみると、赤。黄。茶。黒。白等々。幾多の色糸が混じりあって居るのが分かる。

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