双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

ひとりと一匹 

|爺猫記|



つい数日前。常連のSさん宅の猫氏が逝った。生まれ付き腎臓が弱く、数ヶ月に一度の通院と、慢性の腎不全を抱えながらの八年間の一生だったけれど、それ以外は他の普通の猫たちと同じだった、と云う。拙宅の爺様の具合を訊かれたので、つい本音をこぼすと、赤ひげ先生の理屈は確かに正しいんだけど、なかなかその通りにできる飼い主なんて居ないものだよ、とSさんは仰った。
「人間はさ、普段の風邪とか予防注射なんかは、掛かりつけの町医者に通うけど、例えば癌だとか大きな病気が見付かったら、紹介状書いて貰って、大きな病院に移るでしょ。それは猫だって同じで、或る病院で駄目でも、一先ず他の病院にも診せてみて、どうにかなるよって云われたら、それに越したことは無いだろうし、其処でもやっぱり手の施しようが無いって云われたら、それはそれで覚悟ができるんじゃないかと思うよ。」
そう。白状すると、それを考えない日は無かった。自分で最期まで看取る。延命なんてしない。そう決めたことで、何か唇をぎゅうと噛み締めるよに、馬鹿みたいに一人で意地張って。ただ頑なになって居たのではなかったか。しかし、もしかするとそれこそ身勝手な話なのではないか。Sさんの云う通り、他所で診て貰って快方に向かえば儲けもの。もし駄目だったにしても、それでようやく腹が括れるのではないか。たとい僅かであれ、残った可能性を自ら捨てることは無いと、翌日、隣町の動物病院へ診せにゆくことを決めた。どうしてもっと早くそうしなかったのだ、と云うことは考えぬよにした。自分で下した判断のひとつひとつを、そうやって逐一悔やんで責めて居たら切りが無い。己で立って居られない。しっかりせねば。

意を決して出向いた隣町の病院は、噂にだけは知っては居たものの、近くに高級団地を抱えるだけあって、まるでエステサロンか美容院か?と云うよなお洒落っぷり。無料のドリンクサービスやら、「ホビ野様」と様付きで呼ばれるやらで、些か腰が引けるも、スタッフの女性たちの一寸した気配りが、こちらの不安を和らげてくれるのが有難い。程無くして診察室に呼ばれ、今までの経緯を一通り説明する。そして、既に手の施し様が無い状態なのであれば、無為な延命治療は望まぬが、残りの日々をできる限り苦しまずに、穏やかに過ごせるよな治療はお願いしたいことなど告げながら、歳若い先生と助手の女性を前に、涙がぼろぼろとこぼれてきてしまい、みっともなくてすみません、とハンケチをぐしゃとやる。「大丈夫ですよ。こう云う状況で、全くうろたえずに気丈で居られる飼い主さんなんて稀です。」
エコーを撮った後に血液を採取し、血液検査の結果が出るまで三十分程。再び診察室へと呼ばれて話を聞く。当然のことながら、数値は以前より悪化して居たが、点滴や投薬などの適切な処置で、恐らくは徐々に下がってくると云う。「数値が或る程度安定するまで、点滴を暫く続けて様子を見ましょうね。個体差は在りますが、是で少しずつ元気が出て、ご飯も食べられるようになる筈です。体内から毒素を排出するには、お水を沢山飲んでおしっこを沢山出すことが大切ですから、お水はいつでも飲めるよにしてあげて下さい。」拒食については、病の影響も勿論だが、もしかしたら療法食が美味しくないのかも?とのこと。赤ひげ先生の所で出されたのは”ヒルズ k/d”と云う餌なのだが、この餌、猫によっては、好き嫌いがはっきり出るのだとか。爺様の場合、初めに与えたとき、実に食いっぷりが宜しかったもので、てっきり好みの味だとばかり思って居たのだけれど、それはあくまでも投薬による一時的な食欲増進で、もしや拒食の原因が餌の不味さに在ったのだとすれば、爺様には何と気の毒なことをしてしまったものか。すると若先生、あまり神経質になり過ぎずに、今まで食べて居たご飯を一寸混ぜてあげて下さい、と云う。「点滴した後、すぐご飯が食べられる子も居ますよ。」
皮下点滴で、ぷにぷにのたぷたぷとなった、爺様の腹をさすりながら帰宅。やれやれ、お疲れさんでしたね。ぷにぷにが妙な感じでしょうけれど、一晩でぺったんこになるそうですから。ゆっくり横になって休んでくださいね。寝床に寝かせて毛布を掛け、療法食に慣れた餌を少々混ぜたものを用意。水入れにたっぷり水を張って、仕事へ戻る。数時間後に様子を見てみたところ、実に。用意しておいた餌が半分無くなって居るではないか!*1嗚呼、いったい幾日ぶりだろ。こんなに減った皿を見たのは。餌を食わぬと云っては涙ぐみ、餌を食ったと云っては涙ぐむ。いやはやまったく、困った主であるよ。この先は、如何なる道か知れぬも、ひとりと一匹。並んで歩く道。

*1:やはり療法食が余程に不味かったのだろか。否、ここはひとつ、点滴の効果であると信じよう。

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