双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

女は女である

|徒然|


少し前のことだ。或る若い女性からシャツの着方について、こんな風に云われた。
「普通はそんなに開けて着ると、何だか嫌らしく見えますけど、ホビさんはそうじゃないですよね。どうしてでしょうね。羨ましいです。」
シャツを着るときは大抵、釦を上から三つ外して着る。勿論、シャツの下にはもう一枚、襟ぐりの広いのを着て居る。単に首が短いのと、窮屈なのを嫌ってのことなのであって、どうしてでしょうね。と訊かれても、要は色気が足らぬだけのことでしょう。と答えるしか無いのだが、見目からして十分に女らしい女が、釦を三つ外してようやっと女の末席に加われる程度の女に対して、それを羨ましいと云うのも、実に奇妙な話だ。ふと、意地の悪い嫌味かしら、とも勘繰ったが、この女性の性格からすると、どうやら他意は無いものと思われる。
よく”目の遣り場に困る”と云う云い方をするけれども、確かにそうした露出過多の女性の多くは、(それが敢えて意識したものか否かの違いこそあれ)見る者を少なからずとも困惑させるものである。女と云う性が生々しく目に見える形で表へ出ることで、見る側も自らの性を意識せざるを得ない。つまり肉体の露出は、人のセクシュアルな感情に直結すると云える。興味深いのは、同じことでも人によって健康的で好ましく見えたり、颯爽と格好良く見えたり、或いは下司ばって下品に見えたりもすることで、是は恐らく、その人の持つ気質に依るところが大きいと思われ、また露出の匙加減が、人格や品性を推し量る材料の一つとなり得ることなどを考えると、実直で賢い女性が慎重になると云うのは、成る程。私にも理解できる気がする。
私とて女である。できればしっとり落ち着いた品や、歳相応の色気のひとつも備えたいところだが、その一方で、女として申し分無いにも拘わらず、シャツの釦の数のよな些細を羨む女が居る。人とは自らに無いものを欲する、まこと厄介な生き物であると想う。

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