双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

そんなことをずっと考えて居た

|映画| |本|


前日エントリにて、『風の谷のナウシカ』について触れたので、折角だから書いておこうと想う。ラピュタを最も好きな作品に挙げたものの、やはりナウシカを外すことはできない。何故ならここで描かれたテーマは、以降も氏の作品の根底を成してゆくからである。古代のラピュタ人は極めて高度な文明を築き上げ、恐ろしい破壊力を持った兵器を操ったが、土(自然)を捨てたが故に自ら滅んでいった、と語られる。『もののけ姫』も又、物語の舞台が古の日本と云う相違こそあれ、圧倒的な荒ぶる自然の力、畏敬と、自然をも掌握せんと驕る人間の業と云う、ほぼ共通のテーマを描く中に、文明(人間)は自然と共存できるのか?を問う。登場人物たちにも類似する部分が多く、エボシにクシャナを重ねた人は多いだろうし、ナウシカの役割は、サンではなく、むしろアシタカが担って居るよに想える。本来人間であるにも拘わらず、人間に強い憎しみを抱くが故、人間に帰属しないサンに対し、一方のアシタカは、人間でありながら人間の行いに疑問を抱き、信じ、自然に心を寄せ、両者の間に立って共存の道を探って居る。或いは、アシタカとサンの両方を合わせて、ナウシカなのかも知れない。
何れも物語は、明確な答えを得ぬままに終わって居るが、是が今尚進行形の問題であることを考えれば、納得がゆく。この地球上に我々が生きる限り、そこから目を背けることはできないのだ。宮崎氏はこの映画において絶望の淵を描いて見せた後で、しかし人間へ僅かに希望を託して居る。見方によっては、もののけ姫で描かれた時代から辿った人間の行く末が、あのナウシカで描かれる、文明が行き着くところまで行き着き、やがて火の七日間によって崩壊した後にもたらされた、果て無き不毛の世界とも受け取れるか。これは架空の世界の話なのではない。我々の先に待つものが、恐らくそうなのだ。人間が驕りを捨てず、争いを繰り返し、文明がこのまま自然を破壊しながら進み続ければ、やがて世界は我々自身の手によって滅びてゆくだろう。そして、それを止めることができるのも又、我々人間に他ならない。否。もしくは止めることは出来ぬのかも知れず、ならば滅びると云う必然を受け入れるべきか…。
3・11以降の世界。自然の猛威と原発事故によって世界が変わってしまった現在。あの日以来、私にはそれが、宮崎氏の描く世界と重なってしまうのだ。


□□□


風の谷のナウシカ 7

風の谷のナウシカ 7


二時間程の映画の中では、残念ながら氏の膨大な構想の全てを描き切れては居ない。是非、全部で七巻在る原作も読んで頂きたいと想う。連載の始まったのが1982年。三十年も前だと云うのだから、改めて驚かされる。書店の棚で私が単行本を手にしたのは、確か中学一年の頃だったかな。設定も物語のすじも映画とは多少異なるが、ひとつひとつがより深く、より重い。正義と信じて居たものが。真実と信じて居たものが、果たしてそうであったのか。物語が終盤へ向かうに連れ、火の七日間や腐海の誕生の真相も明らかとなってゆく。緻密に描き込まれた画が、本当に素晴らしい。幾度も幾度も読み返す名作である。

<