双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

活動日誌(終)

|雑記|


そろそろ自営業メンバーたちの仕事が再開することも在り、一先ずは本日をもって我々の活動も終了となる。事務所は一旦閉まるが、これから先も暫くは残務整理や物資の管理などが続く予定。ライフラインが全面的に復旧し、瓦礫が撤去され、人々の衣食住が次第に整いつつある現在、震災直後の第一段階を目的とした我々の役割は、我々なりに果たしたと思う。後は、行政によるインフラの復旧整備等に移る段階だ。




数日前、会長が市長よりボランティア活動への協力を受けて来たことは、既に書いたと思う。しかし、市長の意志 (外に出して貰えんらしい) と課長連のそれとは違ったようで、いざ蓋を開けてみれば、役所から回される仕事は、災害による瓦礫等を集積場に運搬しろだの、屋根に上ってブルーシートを張れだの。挙句の果てには、集積場に山積みの瓦礫を重機で移動しろだの。本来ならば、市が指定業者に依頼するよな内容ばかり。*1我々は確かにボランティアではあるけれど、NPOでも何でもないので、何処からも援助を受けて居ない。燃料、作業に不可欠な重機や車両など、全てが自前。自分たちの仕事に犠牲を払うことを、初めから納得の上で携わって居るのだとは居え、やはりそれにも限度が在る。市にしてみれば、そうした仕事に指定業者や消防分団など、横の組織を駆り出せば大きな金がかかるから (ちなみに指定業者には未だ動きが無く、消防分団にも震災当初以来、召集はかかって居ない。) 、金もかからずに使えて仕事の早い我々は、余程に好都合と見え、素人には範疇外の難儀な仕事ばかりを次々とよこす。又、何をどう勘違いしたものか。日が経つに連れ、一般市民からの依頼も是に似たよなものが増え始めた。市に問い合わせたら、ここに頼めと云われたと云う人。業者に依頼すれば金を取られる上に待たされるが、ボランティアならタダで使えるから、と単純に考えたのであろう。勿論、皆が皆そんな非常識な輩ばかりではないけれど、そう云う個人的で面倒な問い合わせをしてくる市民の対応も、扱いの厄介なクレーマー紛いのボランティア志望者も、兎に角、市にとって都合の悪いものは皆、こちらへ回ってくるのだ。本来なら互いに協力し合い、連携して動かねばならぬところを、是では嫌がらせもいいところ。聞いた話によれば、こちらで行うボランティアの内容が、肝心の行政よりも的確で迅速であることを快く思わぬ古狸どもの魂胆らしい。実際、新聞社の取材も先にこちらへ来たのだし、確かにあちらさんとしては面白い訳が無い。しかしこの緊急時に、己らの体面だとか評価だとか都合だとか、そんなものが一体どれ程のものなのか。呆れて、罵言の一つを吐く気も失せる。
昨日、ようやく副市長が顔を出しに来たのだが、気の利かなさと頭の固さは、さすが県職上がりと痛感。その場で怒鳴って机をひっくり返したい気持ちを堪え、帰り際を呼び止める。件の福島県民のための避難所の状況を、如何と思われるか。又、あちらは随分と人手が足りないようなので、我々が手伝いたいのだが。そう伝え、求めて返って来た答えには、思わず言葉を失った。「お気持ちは有難いですが、そう云ったことは一切結構です。市の基本的な考えとして、あちらの避難所の人たちには ”自立” をして貰いたい。自分たちのことは自分たちでやって頂く方針です。それ以上の援助は、市営住宅を用意するとか、大きな話に繋がっていってしまいますから。それでは、私も忙しいので失礼。」 逃げるよにそそくさと立ち去った。自立?市営住宅?自立以前に、自立のための援助はおろか、避難初日には食料さえ出し惜しみしておいて、何を仰るか。今現在、避難所に居る福島県の方々の殆どが、頼るつても帰る家も無く、不安を抱えて故郷を出てきた人々だ。実はその前日、あまりにも役所があちらの様子を伝えたがらないので、それを訝しく思い、痺れを切らしたメンバー数名が会長と連れ立って、半ば強引に押し入った。 (それ以前は、物資を持って訪ねても、中へ入れて貰えなかった。) そこで初めて、避難して来た福島県の方々と直にお話する機会を得、現場を目にし、我々が考えて居た以上に気の毒な現状であったことを知ったのだ。それを副市長がご存知か否かは知らぬけれど、我々よりもずっと深刻な被害を被った人々を、こうした冷ややかな待遇でもって受け入れ、後は勝手にしろなどと云うのは、さすがに人道的に赦されることでは無いだろう。ならば受け入れなど、初めから宣言するな。求められた情報に応えてさえ居ない。全くお恥ずかしい話で申し訳ないが、こんな連中が我が町の行政の中心に居ると云う、恥。情けなさと憤りとで、事務所に戻ってからも、暫くは苛立ちが治まらなかった。その後、メンバーの繋がりから、物資を抱えた青年会議所の一人が、避難所に親類が居るので・・・と口から出任せで直接物資を手渡しに行き、その後、新聞社に取材に向かうよう打診。後日、新聞社が避難所の状況を取材に行ったと云うので、こうなればさすがに市も、みっともない姿勢を変えざるを得ないだろう。
又、他県から届けられた弁当の配布に関して、信じられぬよなことが在った。先ずは避難所の市民に配った後、残りの弁当は、福島県の方々の避難所や独居老人、社会的弱者の人々らに十分足りる数であった筈が、何故か残りの全ての弁当が、被害の比較的少なかった山手地区の住民の元へ届けられ、しかも数が余ってしまうからと、一人につき三つも配られたのだと云う。ティッシュ配りのバイトか!全く、訳が分からん。他にも、断水の長引いた孤立地区の地区長さんを訪ねて曰く、 「役所は水のタンクを置いてゆくだけで、様子見にも巡回にも来て居ない。」 など。こうした恥話は山ほど在るし、洗いざらい書いてやりたいのはやまやまだが、書けば再び悶々とした愚痴になるし、是以上書かぬことで、私から市への慈悲としたいと思う。
この一週間はひどく短く、憤りや苛立ちと隣り合わせの日々であったけれど、それと同じくらい充実した日々であったのも確かだ。我々の活動は、及ばぬ微力なのではないか。只の自己満足になってはいまいか。もっと出来ることが在るのではないか。そんなジレンマも多々在った。しかし、私たちの小さな活動でも、それが助けとなった人々の居たことも確かで、足が不自由だのに、家具を戻して貰ったお礼にと云って、わざわざ事務所へお菓子を届けてくれたお婆ちゃんや、物資を頂いたたお礼にと、湿布薬を差し入れに来てくれた医療施設の女性など。行政の目と手の届かぬところに在った人々の 「有難う」 の声は、何よりも私たちを元気付け、何ものにも代えがたい経験となったのではないか。又、自分たちは参加できぬが…と、毎日茶菓子やお茶を差し入れてくれたり、模造紙や筆記具を無償で提供してくれたりした、商店街の旦那衆らの支え。誰かが云って居た。自分にも何かができるんだなって、生まれて初めて感じることができた、と。最後の仕事を終えたメンバーたちが帰って来たところで、皆で輪になって、しみじみと会長の話を聞き、一本締めで解散した。けれど、辺りがすっかり暗くなっても誰も帰ろうとはせず、名残惜しさに夜は更けた。暗がりのストーブの周りには愚痴が在り、反省が在り、そして喜びと笑顔が在った。

*1:課長の一人に至っては、自宅の災害ごみを処理しろ、と電話をかけてきた。恥を知れ。

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