双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

似合う気骨

|雑記| |モノ|


つい先日のことである。グレイ地に黄色い縞の
入ったボーダーTシャツを手にして、どうも
是は似合わぬ色合いじゃないかしら、と怪訝の
顔つきで居たところ、思わぬ意見を頂戴した。
「自分でそう思うだけだよ。とても似合う。」
ふむ。黄色などと云うのは、てっきり自分の
色では無いと信じて今までを過ごして来たが、
ともすると我々は、日々接する様々の事柄に対し、
斯様な思い込みとやらでもって、多かれ少なかれ。
自らの人生の幾らかを、損して居るのかも知れぬ。


それから程無くして、購読する雑誌のコラムへ
実に頷ける記述を見付けた。紳士とモノの関係に
ついて考察する連載で、今回はと或る老舗眼鏡店の
店主の言葉が幾つか取上げられて居たのだけれども、
店主曰く、そもそも眼鏡を選ぶ際に重要とされる
”眼鏡と顔型のマッチング” には意味が無い、と。
むしろ、その人の趣味嗜好だとか、立ち居振舞い
だとか。その人全てを取り巻く流れの中でこそ
”似合う” が立ち現れるのだ、と云うのである。
もし、是と気に入った眼鏡を見付けたならば、
”十年後、その眼鏡が板に付いているように、
自分自身が修行して、そちらに近付いて行けば良い”
つまり、眼鏡を自分に合わせて選ぶと云うよりも、
かけたい眼鏡に相応しいよに、己を磨けと云うのだ。
顔型など、表面的な事柄は殆ど意味を持たない。
この眼鏡の似合う自分になろう、と云う気概。
気骨との合致こそが、最も重要なのである、と。
嗚呼、成る程。「似合うと想えば似合う!」 とは、
随分と強引な私の持論であるのだけれど(笑)、
ただ心へ想うだけでなしに、気骨と地道な鍛錬に
よって、やがてはその人とモノとが一体となり、
唯一の佇まいを作り出す、と云うことなのだろか。


この話は、何も眼鏡に限ったことでは無く、
あらゆる物事に通ずる考え方であろうと想う。
男女問わず、佇まい全体の素敵な人を見ると、
その人自身が先ず格好良いのであって、例えば
其処へ付随する、眼鏡や服装などと云うのが、
その人の持つ気骨によって、既にその人の一部
となって居るのに気付かされることが多い。
己の中身がそれに伴わぬ限りは、いつまで経っても
”似合う” と云うことが無いよな気がする。
モノであれ事であれ。何事においても、先ず
”こう在りたい” と想う気概・気骨ありきで、
それに従い、地道に自身の中身を積み上げてゆく。
さすれば結果は、自ずと着いて来るのではなかろか。


…と云い訳して。例の黄色い縞のシャツは、
ちゃっかり箪笥の抽斗へと加わった次第。

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