双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

Another cup of coffee

|徒然|


珈琲の話をも少しだけ。
私を含め、凡そ三十〜四十代辺りのカフェ店主と云うのは、喫茶業界の中では若い部類に入るかと思う。また、この年代の店主の店と云うと、洒落た家具や照明器具がしつらえてあったり、作家物の器で揃えてあったり、意識的に古い建屋などを選んでリノベイトし、自家焙煎の珈琲や自家製のパンを出して居たりして、店主の趣向や想い入れが色濃く反映され、客層も比較的似通った店が多い風に想うのだけれども、一方、所謂地方の田舎町に在るこの店がどうであるかと云えば、全く恥ずかしながら、他の同年代店主の店々と比べて、ちいとも垢抜けて居ない。しつらえも器も、何処ででも手に入る至極ありふれたものだし、店の造りにしても同様。*1しいて云うなら、ここへ来た人が各々に憩えるよう、卓の配置や、ありふれたしつらえなりに、些細な心配りをして居る程度のもので、つまるところ。今様の洒落た佇まいの店では全く無いのである。それ故か、客層も他所のそうした店と比べると、随分と違って居るのではなかろか。遠方から足を運んで下さる方もたまには居られるが、殆どのお客は、市内やその周辺に住まう普通の人々である。昼間なら、買い物帰りの小母ちゃんたちや、定年した小父ちゃんたち。主婦や外回りの営業さん。夕刻を回れば、仕事帰りの勤め人や独り客など。若い人に限らず年配のお客も在り、様々。珈琲は先日書いた通り、開店以来ずっとU社の豆を使い、どちらかと云えばあっさりめの、温度も熱めの珈琲が好まれる地域柄故、ドリップでは無く、その都度サイフォンで淹れて提供して居る。珈琲の種類は焙煎の浅いものから中深のものまで、五種類程を揃えては居るが、それだって、取り立てて特別なものでは無い。
以前、旅先で立ち寄ったカフェは、やはり同年代と思しき店主の店だった。新しいけれど、こじんまりして感じの良い店で、出される珈琲も昨今主流の、深煎りをドリップで淹れた美味しいものだった。珈琲一杯の値段が六百円程であったろか。気軽に口にする珈琲としては、ちょっと高価であるよに想え、珈琲そのものも、確かに充分美味しいのではあるが、僅かに何か、違和感のよなものを感じたのを憶えて居る。あの違和感が何であったのか。暫くずっと考えて、ようやく腑に落ちたことが在る。個人的にはとても好きな佇まいの珈琲だけれど、何処か ”よそいき” で、それは私の店を訪れる人々の、一日に何杯も口にする珈琲であったり、気軽に飲みたい珈琲には、恐らく向かないのではないか。私の淹れるべき珈琲は ”よそいき” のじゃなく ”普段” の珈琲なのだ、と。そう気付いたとき、私は自分の店で出す珈琲がどうあれば良いのかを、改めてはっきりと知った気がする。
普通の珈琲を普通の方法で、至極当たり前に。(それは勿論、妥協に落ち着くだとか、手を抜いても良いと云う意味じゃない。)しかし、この ”普通に当たり前に” と云うことが、実はなかなか難しいのだと、未だに常々考えさせられる。決して押し付けがましくなることなく。際立ってしまうことなく。地域性や客層に合わせながらも、ぴんと一本の芯を通して、人々がありふれた日常の中で口にする珈琲として、良い塩梅のものとなるよに。或る一定の人々のためにでは無く、年代もタイプも限らぬ様々な、心善き市井の人々の。*2ほんの小さな想い入れは、気付く人だけがそっと気付いてくれれば、それで良い。
仕事着の男性や、エプロン着けたままの小母ちゃんが、気軽に立ち寄れる。マンデリンを傍らに、宮脇檀の 『男の生活の愉しみ』 を読んで過ごす青年の隣の卓では、通院帰りのお婆ちゃんらが、同じ動きでココアの砂糖をかき混ぜる。ちょっと離れた卓では、『暮しの手帖』 から気になる記事を帳面に書き写す娘さん。洒落たところも変哲も無いけれど、実にこうした、一見ちぐはぐな客層が一つの空間に混在する店が、私の店で良い。高価で希少な珈琲でも、趣味性の高い珈琲でも無く、自家焙煎のこだわりの珈琲でも無い。普通の珈琲。うるさがたには些か物足りぬかも知れぬが、私は日々の珈琲を淹れよう。

先日の拙きエントリに、皆様よりあんなに沢山の星を頂戴致しまして、びっくりしながらも、本当に有難いことだなぁと、胸を熱くしました。こうして多くの心在る人々が、強引な世の潮流に対して、同じよに疑問や憤りを持って居られると云うことが、実に心強く、しみじみと嬉しく感じられました。有難う御座います…。

*1:資金に余裕が在ったなら、それこそ存分好きな風にして居たろうけれど。

*2:勿論、心善き人々だけで無く、中には ”心善からぬ” 人々だの、不協和音をどっさり背負った方々も、世の常で時折いらっしゃいます(苦笑)。そんなときは、ぐっと堪えて嵐の去るのを待つのであります。

<