双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

紙の上

|徒然|


製図用紙に描かれた一枚の平面図が手元に残って居ます。ずっと昔、未だ借り物の店舗で珈琲を淹れていた頃に、予定もあてもないまま、ただ愉しみのためだけに描いたものですが、作り付けの棚の寸法や家具の配置などのスケッチも、こまごまと描かれてあります。
当時の大家さんと云うのがとても変わった人でした。こちらが何をせずとも、いわれの無い云い掛かりや難癖に困らされ、そうかと想えばころり態度を変えたり、何かとあちらの奇行に振り回されてばかりで、心身ともに辟易して居た頃だったよに想います。ですから、そうやって紙の上に自分の店を作ることで、ささやかな心の拠り所として居たのかも知れません。実現を前提としない、純然たる空想の箱庭での愉しみでしたから、あわよくば…と、全く願わなかった訳ではありませんが、それでもやはり、実際に建てて形にするだとか、どうこうしようとは、ちいとも考えて居ませんでした。
私はどうやら、平面図と云うのが好きなようです。好きなあまり以前は暇が出来ると、住みたい家(大抵は小屋程のものでした)ですとか店の平面図を幾つも描いて居た気がします。普段は気むらなのに、そうして居る間は集中が苦にはならず、すうっと心が安らいで、実に仕合せな心持ちになったものです。かと云って、平面から立体に形を起こす模型と云うものには、殆ど心惹かれたことが在りません。普通に考えれば、立体模型である方が本物に近いと想うのですが、実際に形となったものを目にするよりも、平面に描かれただけの紙の上から、様々な想像をあれこれと想い巡らせることの方が、ずっとずっと愉しかったのです。確か初めて平面図を描いたのは、小学五年か六年の頃ではなかったでしょうか。夏休みの宿題だったか、それとも図工の何かだったか、私はサザエさんの磯野家を平面図にしたのです。父が建築業でしたので、小さな頃から父の図面を引く姿をずっと見て来て、それで見様見真似に描いたのかも知れません。兎に角、間取りは頭に入って居ましたから、其々の部屋が大体畳にして何畳かを書き留め、それを紙の上に引いていきました。父に見せると、襖や引き戸、窓の描き方や、きちんと縮尺して描かねばいけないと云うこと。それに縁側の廊下です。ただ定規で一本の線を引っ張るのでなしに、力を入れたり抜いたりして強弱をつけると、もっと廊下らしくなるよ、などと教えてくれたものでした。それをきれいに清書して学校へ持って行ったら、珍しく先生に褒められたのを、今でも嬉しく憶えて居ます。
さて。以前に、理想の住まいは小屋なのではないか?と云うお話をしました。私は常々小屋と云うものに惹かれ続け、小屋について考え続けて居るのですが、建築家の中村好文さん(”氏”ではなく、あえて”さん”と呼びたい方です)が方々で書かれてらっしゃる小屋と云うものへの想いに、深い共感を寄せずには居られません。無理は承知としても、できることなら自分の小屋(終の棲家かな?)は中村さんにお願いしたいなぁ。想わずそんな心持ちにさせるよな素敵な小屋、小さな家を数々手がけていらっしゃって、何よりも「人」の「暮らし」に寄り添うやさしさ、「身の丈」に合うことの大切さが、文章やイラストの端々からも伝わってきます。小屋と云うからには、当然小さな住まいですから、最小限住宅、と云うことになります。余分な要素を極力切り詰めた、必要最小限の空間。そう聞くとどうしても、ただの殺風景で無愛想な四角い箱を浮かべてしまいそうですが、小さな空間に心地良く暮らすための豊かなアイデア、遊びの自由な愉しさを取り込むには、最適の器であるのではないでしょうか。何しろ、大きな広い器であれば、何をどうするのも自在で、選択肢には事欠きませんが、小さな小さな器においては、考えに考え抜かれた末の、云いかえればこれ以上無い、まさに是でなければと云うアイデアだけが残るのです。実に究極の住まいと云えるよに想うのですが、如何でしょう。コルビュジェの休暇小屋などは、僅か畳八枚分程(!)しかないにも拘らず、家具の配置や些事への心配りは、是しか無い、と云うことを、小屋自身が静かに語って居るよな気がしませんか?中村さんの著書の中に、むむむと唸らせるよな言葉がありました。小屋と云うものを考えるとき。「”これで充分住める”と思うか”こんなんじゃ住めない”と思うかで、私には、その人の住宅観、もっと言えば、人生観までが分かる…ような気がしています。」 まさにそこなのでしょう。その人が小屋に何を求めて居るか、或いは、小屋と云うものをどう捉えて居るかが、どちらと感じるかに表れる。そして、それはやがて、人生の形へも繋がってゆく筈です。
今現在の私の住まいには、恥ずかしながら大変多くのモノが雑居して居ます。でも、もし「小屋」へ移るとしたら。多少の躊躇は在るでしょうが、案外と余計なモノを潔く始末できるのではないかと想うのです。身の丈に合った大きさの小屋、身の丈に合っただけのモノ、そして身の丈に合った暮らし。何故小屋に惹かれるのか?の答えは、恐らく私の「身の丈」が、小屋そのものだからなのかも知れません。

|本|


住宅巡礼

住宅巡礼

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