双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

鳶の家

|徒然|


父方の祖父が逝った。連れ合いであった祖母が先に逝ってから、四年目の春。
祖母もいい加減寂しくなって、ぼちぼち、祖父を呼んだのかも知れぬ。先週催された入所先の施設の花見で、甘酒を大きなコップに四杯と、饅頭などの茶菓子、弁当をぺろりと平らげ、それが生憎に祟ったのか。急性の軽い膵炎を起こし、一時入院して居たのだけれど、十九日の朝。眠るよにして、静かに息を引き取った。五月の誕生日まであと少し、享年九十二の大往生だった。
十年程前だったか。敬老会の旅行先で脳梗塞に倒れてからは、左半身が不自由となって車椅子の生活を強いられたものの、元々が体の丈夫な質なもので、これと云った大きな病気もせず、晩年は穏やかに暮らして居た祖父。車椅子となる以前は、市の鳶組合の会長を、鳶の県連でも副会長を長く勤め、「現代の名工」 にも選ばれて表彰を受けるなど、生涯を昔気質の職人の粋で通した人だった。尤も、鳶の親方だったくらいだから、若い頃には気風も威勢も滅法宜しく、身内にはそれこそ、相当の苦労をかけたのであろうが、面倒見の良さから、他人様には仏さんみたいな人だと云われて居たと聞く。そんな祖父が、本当に仏さん (この場合、神式だから 「神さん」 か) になった。
葬儀までの数日間は、大往生でぽっくり逝ったのと、我が家の家風も手伝って、端で見て居ても呆れるくらい賑やかに過ぎていったのだけれど、やがて納棺のときが訪れると、それまで仕舞っておいた様々が、溢れるよにして込み上げて来た。祖父にまつわる想いの断片は、心の抽斗の中に懐かしい。傍らに欠かさなかった、両切りバットの箱に白雪の一升瓶。詩吟や浪曲が趣味で。よそいきに羽織った毛織のトンビには、いつも鳥打帽が対だった。絹半纏に雪駄を浅くつっかけた後姿。そして、いつだったかの、祖母も一緒に出掛けた会津のこと。お城には少しだけ遅い桜が咲いて居て、車椅子の祖父と二人、写真を撮ったのだったな…。
祖父から父へ継がれた鳶の血は、私や弟の中に流れることで続いてゆくのだとしても、技術的なことで云うなら、近い内に消えてしまうのだろ。現にこの辺りでも、純粋な意味での鳶職人は、最長老であった祖父で、恐らく、終わってしまった。ひとつの時代の灯が、静かに消えたのだ。ただ。骨身に沁みて強く感じるのは、私をこうして形作るものが、この祖父(や祖母)からやって来たのだと云うこと。血は、やはり、血。
葬儀には、祖母の形見の黒羽二重を着た。背格好の似た同士だったから、自分に誂えたよに丁度で、祖母もきっと喜んでくれたことと想う。遺影の中で祖父が羽織って居た絹半纏が、鳶の纏と一緒に祭壇に飾られて、とても誇らしかった。祖父らしい、粋な良い葬儀だった。

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