双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

野良

|猫随想|


午後。店の裏手にあたる、無人の貸家の玄関前に、
親子と思しき、猫二匹の姿を見掛けた。
丁度ひと月前だったろか。仔猫の鳴き声が夜通し
聞こえてきたことが在って、それがあまりに
心細くて切ないものだから、何とも云えず
胸の締め付けられるよな心持ちになり、以来
ずっと心に気に掛かっては居たのだけれど。
ううむ、もしかするとあの仔猫だろか。
秋桜の背高な植え込みの中。近付く人の気配に、
母猫はささと物陰へ隠れてしまったものの、
残った仔猫を鳴き真似で誘うと、ミャミャと甲高く鳴きながら、
植え込みより歩み出て来た、その姿を見て、思わず絶句。
余程の猫好きでも、躊躇して、たじろぐに相違無い。
恐らくは、生後ひと月かそこいらだろか。片手でゆうに
掴める程のその仔猫は、両の目が完全に塞がって居た。
もはや、目の在り処すら定かで無い。抱えあげて良く見れば、
酷い目ヤニらしきで強固に覆われて居り、開かなくなって
久しいのか、そのせいで、潰れたよになってしまって居る。
Aちゃんと二人、慌てて店に取って返し、お湯でぬらした
布切れと綿棒、それに軟膏などを引っ掴むよにして戻ると、
すっかり固まった目ヤニを、慎重に布切れで湿らせながら、
ゆっくりゆっくり。先ずは根気良く取り除いてゆく。
しかし、これが予想以上に厄介で、瞼も周りの毛も
全部が一緒くたになって、くっ付いて居るものだから、
「もしかして、生まれつきで眼が無いとか…」
Aちゃんが、ひどく心配そうな顔付きで覗き込む。
そんな心配も充分在り得る程、何しろ酷い状態ではあるが、
否々、それは無いよと、綿棒で瞼の際辺りを丁寧に、
根気良く拭ってゆく内、ようやく、目玉らしきが見えてきた。
「ほら。目ヤニがひどかっただけだよ」
突然に視界が現れたせいか、一瞬、大きくびくっとなって
戸惑った風であったが、どうやら目はちゃんと見えて居るらしい。
ほっと胸を撫で下ろし、残った目ヤニを残らず取り除き、
他にも按配の良くないところはあるかしら、と見てやる。
実に不思議なことだが、掌の中の仔猫は、首から上は兎も角、
それ以外の部位は妙にきれいで、毛並みもふわふわ。
野良のくせに、白い腹にノミ一匹たかっては居らず、
病気の猫のよに臭いも無いし、下痢などの形跡も無い。
その上、我々が処置を施して居る間も、ぶるぶると
小刻みに震えては居たものの、実に大人しくして居た。
母猫は物陰で我々の去るのを、じっと待って居るのだろか。
最後に目の際へ軟膏を塗って、ほら行きな。と放すと、
隣の畑との境で立ち止まり、暫しこちらを見て、鳴いた。


夜。寝床の中、横隔膜の上下の伝わるところに、
私の猫が眠る。昼間の出来事を手繰り寄せながら、
老いた猫の丸い背に、そっと掌を置いた。
あの子はもう、大丈夫だろ。
野良には野良の掟が在る。

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