双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

母と娘

|徒然|

近年 「友達親子(母娘)」 と云うのを耳にすることが多い。文字通り、友達のよな関係の母と娘を指しての言葉である。こうした母親と娘は互いを 「ちゃん」 付けの名前で呼び合ったり、洋服を共有したりもするのだと云うが、はて。これをどう考えたものだろか。一見すると傍目に微笑ましいと思わせるかも知れぬこの関係は、その実、何かがひどく破錠して居るよな気がしてならない。辛うじて、互いの薄皮一枚のみで危うく繋がって居るだけの、実体を伴わぬ関係、とでも云ったら良いのか。元来、母親と娘の繋がりと云うのは、もっと複雑で、難解な矛盾を内包するもの、と云う気がして居る。同じ女であり、同じ遺伝子を共有する母親と娘は、しかしながら、決して対等でなど在り得ない。母親の胎内よりこの世に生まれ出でた瞬間から、娘は、母親の支配に置かれ、そこから逃れられぬ宿命を背負うのである。そう、いっぱしの大人になってですら。
母親にとって、同じく女であると云うことに加え、自身と共通の遺伝子を持つ娘の存在は、或る種、血を分けた分身と云えるかも知れない。それが伴侶を得てやがて妻となり、子を持って母となれば、尚更に近くなってゆくだろう。だからこそ両者は、最小限の接触で、敏感に、互いの想いを嫌と云う程理解することが出来る。けれど、例え血を分け合い、やがてどんなに近づいてゆこうとも、決して同化することは出来ない。限りなく近づきながらも、母親と云う個人、娘と云う個人であることに、変わりは無いのだ。互いが互いの分身でありながら、全くの同じでは無いと云う、矛盾。それ故、そこで繰り返し取り交わされる愛憎は、他人との間のそれとは比較できない程に、深く、濃い、無二の繋がりであって、例えどんなに激しくいがみあったとして、あっさりと互いを許すことも、また、幾多の感情が絡み合った末の和解には、広い寛容と、或る種のカタルシスとを伴うに違いない。母親と娘とは、こうした、実に複雑な親和で結ばれるが故、互いを簡単には受け入れ合えない。心の底では大いに慈愛を抱きながらも、口からこぼれる言葉に、それを素直に滲ませることが容易には出来ぬものだ。良くも悪くも、娘は生涯、母親の支配から逃れられぬ宿命を持ち、母親は生涯、娘を支配する宿命を持つ。この両者の間に横たわる 「支配」 と云うものは、絶対不可侵の偉大な 「庇護」 である一方で、 ひと度ボタンを掛け違えれば 「呪縛」 とも成り得ると云うのだから、全く、一筋縄では知れないものだ。深い親和と激しい衝突。母と娘の線上には、それらが同じ間隔で、奇妙に並んで居る。
私に関して云うなら、自身の母親とは見目を除けば、おかしなくらい共通点が見当たら無い。気性、好み、その他諸々。むしろ正反対、と云っても良いのではなかろか。些細な口喧嘩はしょっちゅうだけれど、だからと云って特別に不仲な訳でも、特別に仲が良い訳でも無い。ああ云えばこう云い、頼り頼られなどしながら、何だかんだ云っても親子なのだなぁ、としみじみ想うことが在る。そもそも、私が今の店を始めるにあたっては、私自身の所得と社会的信用からでは、銀行の融資を受けられぬことが明らかであったから、この点は、母親が融資を受ける形を取ることで解決した、と云う経緯が先ず避けられない。故に当然、店の名義も母親であり、実質的には私が切り盛りして居るとは云え、経理等々を受け持って貰って居ることなども含めると、やはり世間的には、母親の所有であることに変わりは無い訳で、結局のところ、私は母親に頭が上がらないままで居る。勿論、感謝の意は示して余り在る程なのだけれど、その気持ちを、素直に口に上せて示したことは、恐らく未だ無い。否、出来ぬのだ、と想う。もしもこれが、離れて暮して居たり、滅多に会わぬ環境に居るとするのなら、話も多少は違ってくるのかも知れないが、生憎(?)私たちは、日々仕事場で顔を突き合わして居り、望む望まずに拘らず物理的な距離は、近い。今までの感謝を全て言葉にできたなら、どんなにかすっきりすることと想うけれど、それを知りつつも出来ずに居ると云うのは、私たちが親子であるから、なのであろう。物云わずとも、互いの心根を読めるのが、母と娘だ。他人なら、こうはゆかない。
若い時分。例え母親であろうと、私のことなど分かる筈があるものか、と頑なに拗ねて居た時期が在った。私に限らずとも、思春期であれば、誰しもが同じであったことだろうけれど、今でも、至極たまにではあるが、その場の感情に任せて、そんな想いに駆られることが無くも無い(笑)。しかしながら、母親と云うものは、こちらの考える以上に、娘の何たるかを知って居るものなのだ。知らぬ素振りで居るだけで、誰よりも娘を知って居るのは、恐らく、その母親である。娘もまた然り。
始めに述べた 「友達親子」 たち。互いの愛憎や葛藤を怖れ、努めて深いところに触れぬよにして居るだけ、なのではなかろか。彼らは親子であることの宿命、諸々から必死に逃げ、それを体良く装って居るだけ、なのではなかろか。
娘は胎内に眠るとき既に、母親の一部であったのだ。母親と娘は、友達になどなれない。決して。


赤い生命 ― エディットへ ―


母親たちは 血を流して
きみたちを産んだんだよ
そして 一生つないでおくのさ
生の肉のリボンで
人は籠の中で育てられる
ゆりかごの端に吊るされた
血のついた もぎとられた乳房の
かたまりを噛みながら 生きるんだよ
人は身体中 血まみれだけど
それを見るのを嫌って
他人の血を流させるのさ
そのうち それもなくなったら
人は 自由になれるだろうね


『 La vie rouge 』 Boris Vian

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