双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

緑の指と羊の毛

|本| |庭仕事|


ku:nel (クウネル) 2008年 09月号 [雑誌]

ku:nel (クウネル) 2008年 09月号 [雑誌]

英米園芸界の二大頑固バアさん*1ローズマリーとターシャの居なくなった現在。両者共に、所謂プロフェッショナルな職業的園芸家でなかったことも、充分に興味深いが、それも踏まえた上で、あの二人に匹敵する頑固さと、或る意味での意地悪さ(笑)とを備え、「園芸的に正しいことをしない」 園芸家がこれから先、果たして出てくるものなのだろか。などと云うことを、今号の 『クウネル』 読みつつ想う。
庭はその人を映す鏡である、と云うことを考えれば、模倣に終始するだけの庭は、その主もまた然り。必ずこうでなければいけない、などと云う理屈は決して無い筈で、ならば主の数だけ、様々のかたちの庭が在って良い筈なのだ。それを考えるとき、昨今の我が国において盛んに使われる 「ガーデニング」 と云う言葉から漂って来るのは、何処か薄っぺらで、肝心の中身を伴わぬ、上っ面ばかりと云う気がしてならない。しかもこれに 「ブーム」 なんて言葉がくっついた日には、それがやがて間も無しに終焉するものに対して使われるべき言葉、であることなど考えると、いやはや何とも遣る瀬無いのである。今は亡き二人のバアさんの庭を見るにつけ、尚更そんな風に感ぜられてならない。
そこへ来ると、園芸の本場英国の人々は、植物は決して人の想い通りにはならない、と云うことを最初から知って居る。そうして日々庭に向き合い、植物に向き合って居る。地味に気長に。辛抱強く。まして、自然を操ってやろうなどと、彼らはこれぽちも考えて居ないのだ。ガーデニングと云う言葉の上辺だけを、単になぞってお終いなのではなくて、我々も、先ずは其処から始めないといけないのではなかろか。緑の指の持ち主になるための道のりは、実に永い。形だけ真似ても、そう易々とは手に入らないものなのだ。


他には、モーフィー岡尾氏が米国に飛んでの、羊追いと毛刈り体験。刈り取った羊毛は、小さな工房で作られるサマー・ブランケットの原料となるのだとか。草原の佇む、小さな水色の小屋。あの小屋なら、私も住まってみたいなぁ。

*1:敬意と親しみの情を込めて、あえてこう呼ばせて頂こう。

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