双六二等兵

ポッケにさすらい 心に旅を 日々を彷徨う一兵卒の雑記帖

煙草を一本

|徒然|

もうかれこれ二十年来、我が家と繋がりの在るAさん。御歳六十五歳、個人で営む電気関係の会社の社長さんで、時折の人生訓話なども面白可笑しく、説教くささがちいとも無くて、どこかスコンと抜けたよな人柄が飄々として居る人。そんな風だから普段店に来た時も、Aさんの話と云うのは、Aさんらしい、何処かに捻りの在るユーモアを交えた話が多い。
それが今夜は、どう云う経緯からだったろか。何かの話題からAさん自身の経営理念の話になった。Aさんが、嗚呼仕合せだな、と感じる瞬間と云うのは、社員にボーナスを手渡しするときなのだと云う。皆が実に嬉しそうな顔をするのを見て、この人たちが居てくれるから、俺の会社が在るのだ、としみじみ想うのだと云う。だからAさんの会社は、身内・役員には一切ボーナスを出さない。ボーナスを貰うのは、その他の社員たちだけと決めて居て、身内は勿論、社長の心根を知る役員たちも皆、それに意義を唱えることをしない。そんな話を、私はこの夜初めて聞いた。
「傍目には儲かって居るよに見えるかも知れないし、実際利益は在るけど、利益以上に借金だって在る。でも借金は社長の作ったものであって、社員は関係無いんだ。社長は社員の仕合せのために会社を引っ張る。だって社員の仕合せが在ってこそ、俺と家族の仕合せも在る訳だから。こんなやり方は、今の世の中じゃ古臭いだろうね。もっと儲かる方法なら幾らでも在るんだろうけど、俺は分かって居てもそれが出来ない人間なんだよなぁ。」
Aさんがそれを話す顔は、何ともゆったりと穏やかで、この人のそんな顔を見るのも、恐らく初めてだった気がする。「だからね、俺はホビちゃんが心配になるときが在るんだよ。」 Aさんは云う。「俺とホビちゃんは何だか似て居るんだなぁ。だからホビちゃんが、今のこの仕事を成り行きで始めたにしても、これから先も、ずっと続けてゆくのか。それとも本当は辞めても良いと、心の何処かで考えて居るのかが知りたいんだ。」
この人は分かって居る。辺鄙な立地。凡そ時流に合わぬ生業。自分のやりたいこと、今の世でそれを続けてゆくことの、難しさ。それを全て承知でそれに埋没しても、あなたは仕合せなのですか?と。そしてきっと、この人は私の答えも知って居る筈なのだ。
私は欲が浅いせいか、もっと贅沢がしたいだの、もっと儲けてやるだの、そんな風にあまりお金に執着が無い。お金は在るに越したことは無いけれど、食う寝る住むに困らず、本が買えて、欲しいものは、ほんのたまに買えれば充分で。確かに、月々の払いを全部済ませてしまえば、手元に余分なお金は殆ど残らぬし、Aちゃんにだって、本当は人並みの給料を払ってあげたいけれど、Aさんの会社と同様、有難いことに、彼女もちゃんとそれを分かってくれて、今のままで良いと云ってくれる。それでもあと数年で返済が終わるから、そうすれば今より少しは楽になるのかな。
私がそう答えると、Aさんはやっぱりな、と云う風に笑った。「そうかぁ。でも、借金が払い終わったら、その後はどうする?」 続けるのか。それとも、終いにするのか。
どうだろう。何年か前の私だったら、恐らく答えを迷ったかも知れないけれど、もう腹は括れた。ベタな物云いだが、この仕事は好きだからできることで、お金を儲けるのが目的なのであれば、とっくに別の手段を選んで居たであろうし、例え始まりが成り行きだったにせよ、やめる決心がつかずに、他の何かに後ろ髪引かれて、迷いながら続けて居る訳では無い。借金が払い終わったら、もしかすると、何処か別に場所を移すことも在るかも知れない。ここが売れればの話だけれど、そうしたら、平屋建てなんかの、もっとずっとこじんまりした店にして、細々続けて、それこそ婆さんになるまで、珈琲淹れて居たいものだなぁ、と想う。そうやって小さく暮らしてゆければ、それで良い…と。
それが聞けて安心した。と云って、Aさんは満足そうに一本、煙草を吸った。そうなのだ。人生の中に仕事が在って、日々の生活に困らぬ程度のお金さえ入ってきて。無理せず細々と、小さく暮らせれば良い。ささやかな贅沢は、スカパーで好きなサッカーが観られたり、手仕事の素敵な品を時間をかけて手に入れたり、小さな旅ができたり。そんなもので良い。
ふと柱時計を見やれば、閉店時刻を半時ほどまわって居る。そう云えば、いつからそんな風に想えるよになったのだろ。穏やかな心持ちで、一日の終いに、私も煙草を一本。

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